2006年3月24日(金)
《はじめに》本文は一九五五年頃、古沢典穂が熊本県知事(当時)桜井三郎に上塚周平の生い立ちについての調査を依頼したところ、県知事から次のような懇切な調査報告状が送られてきた。日本人移民において、いちばん大役を果たした上塚周平の生い立ちについては、コロニアでは詳しく知っている人はない。移民百周年記念も迫りつつあり、この際非常に貴重な歴史的な証言である。古沢典穂の遺家族が保存している古文書箱から見つけだした私は、消滅する危険があるので、ここに原文のまま発表することにした。
上塚周平の生い立ちにつ いて(熊本市新屋敷町在 住、元陸軍中将深水武平 次の談話要旨)
[明治十四年頃]
深水氏は十一歳、上塚氏は八歳で、同じ寺子屋に通った。深水氏は益城郡釈迦堂村(後の下益城郡杉合村、現在の富合村)に住み、上塚氏は隣村の益城郡赤見村(後の下益城郡杉上村、現在は城南町)に住んでいた。寺子屋の先生は世良某と言う。老先生で、漢文、習字、珠算を教えていたが、数多くの塾生の中には、一、二人の女生徒も混じって、女大学などを習っていた。生徒は「文庫」を持って毎日先生宅に通ったものである。文庫の中には硯、筆、墨、草紙、及び竹製水入れ等入れていた。
上塚氏は稀に見る天才児で、学科の方はずばぬけてよかったが、服装等無関心で、顔を洗ったことがないほどで、イタズラ好きの腕白者で子供の中でも有名であった。世良先生は上塚氏がイタズラをすると、「上塚周平賢き人とならずんば、丸き頭をスッコン コン コン」と言って頭を叩かれたものである。
[明治十五年頃]
郡内に小学校が設置された。その頃、御船町に役場があって戸長(後の村長に相当する)が居たが、川尻出身で戸田某という学者の戸長が居て、一年に一回郡内の小学校から一名の代表選手を出して「集合試験」と称する学科の競争試験を行っていたが、上塚氏は出場の度に全郡一、二位を争うほどの優秀な成績であった。
その後、深水氏は陸軍士官学校、上塚氏は第五高等学校に入学したため、その間の事情は不明。
[明治三十三年頃]
深水氏は陸軍中尉として陸軍大学に入学し、青山に下宿していた。
当時、大津出身で、政友会でかなり名の出ていた江藤哲蔵という人が小石川に居を構えていたが、熊本出身の青年や学生が寄食していた。上塚氏は東京大学の学生でこのころ江藤の家に寄食し、同村の友人三角捨三という者と、よく青山の深水の下宿を訪ねた。深水氏は陸軍大学の学生であっても、陸軍中尉の俸給をもらっていたので、いつも御馳走する立場であった。
上塚氏は垢で染めたようなヨレヨレの浴衣を着て、相変わらずヒゲをそらず、顔も洗わず、褌も着用しないほどの服装で、垢と体臭のため近寄り難いほど臭かった。勿論、日常の生活費も充分でなかったので、薩摩芋を食って空腹を満たすことが多かったが、時々深水氏から御馳走になっていたような有り様であった。然し物質的欲望は薄く、専ら大きい立場から海外雄飛を熱望し、肚の大きい東洋の志士的風格があった。
もの心づいた頃から抱いていた海外雄飛の志が、この江藤哲蔵の家に居て、拍車をかけ、具体化してきたもので、全く学業もかえりみず、外務省に出入りしては盛んに海外雄飛の準備をしていたが、たまたま上益城郡白旗村(現在甲佐町)出身の友人、金子某が七十五円の金を持っていて、それによって、横浜から北米に渡って行ったことがあり、それに刺激されて南米ブラジル国へ出発したものである。(以上)
昭和三十年九月一日
熊本県知事 桜井三郎
古沢典穂殿