2006年3月23日(木)
群馬県東南部に位置する大泉町は北関東有数の「工業の町」で、「ブラジルタウン」とも呼ばれる。一九九〇年六月の改正入管法の施行から十六年。同町では中南米系日系人の母国就労増加にともなって日系人のコミュニティが形成され、現在、その活動の場も多様化している。去る二月二十一日、後藤博子参議院議員がアンドレ・アマード駐日ブラジル大使とともに大泉町を訪問。町内のブラジル人学校二校を視察し、町長をはじめ町関係者と率直な意見を交わした。〝日本のブラジル〟が歩んだ十六年の歳月をたどり、その近況を報告する。【東京支社=藤崎康夫】
大泉町の現在の人口は約四万二三一〇人。そのうち外国籍者総数は六七三〇人(ブラジル国籍者四九九三人)で、全国市町村で最も外国人の比率が高い所となっている。
同町の「工業の町」への歴史は三八年、中島飛行機小泉製作所の進出に始まる。やがて軍用機製造に追われ、当時、日本の植民地あった朝鮮や台湾から少年や若者が働きに来た。
戦後、町には米軍基地が置かれたが返還後、町は積極的に工場を誘致。工業製品の生産拠点に成長した。
この町も八六年までの外国人登録者は韓国・朝鮮、フィリピンなどが多く、ブラジルやペルー国籍者はゼロであった。ブラジル国籍者が一位に踊り出たのは八九年のことだ。その後、年を追って急増していくことになる。
一九八〇年代後半、バブル景気の中で、中・小・零細企業は単純労働者の極度な不足による倒産に追い込まれた。生き残るには、アジアの不法労働者に頼るほかない状況に追い込まれた。
しかし、不法労働への取締りは厳しくなる一方。そこに、日本国籍を持つ中南米移住者と二重国籍の二世、そして両親のどちらかが日本国籍を持つ二世や三世が、親に伴って、「家族と同居」や「親族訪問」の査証で来日し、就労可能な資格に切替え、不足する労働力を補った。求人活動は殺到。その中で様々な問題が表面化していく。
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アマ―ド大使と後藤参議を乗せた車は二月二十一日午後八時過ぎに霞ヶ関を出発。約一時間半で大泉町に入ると、緑と黄色の看板が目立つ。後藤議員にとっては懐かしい色である。
後藤博子議員は大分県選出の参議院議員。唯一の移住経験をもつ国会議員で、日伯議員連盟に所属し、自民党厚生労働部会副部会長、参議院文部科学委員会委員として活躍している。
同議員は一九八二年、工業移住者として技術者の夫君とともにマナウスへ家族で移住した。同地ではマナウス日伯文化協会の日本語学校で日系二、三世に日本語、日本文化を教え、八五年に帰国した。
〇一年、参議院議員に当選。教育、移住の問題に深い関心を持ち、県費留学生OBの署名を持って政府と交渉。外国人労働問題にも積極的に取り組む。「日本には移民法が出来ておらず、その下に細かな法律が出来ていないことに問題がある」と指摘している。
今回の大泉訪問に先立つ二月十六日には、静岡県の浜松市を視察に訪れている。
アンドレ・アマード駐日ブラジル大使は、イバン・カナブラーバ前大使の後任として昨年十月に訪日。十二月、皇居で天皇陛下に信任状を捧呈した。今回の大泉訪問は大使就任以来、東京以外の地域で初めての正式訪問となる。
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八九年十二月五日に開かれた中南米大使会議。席上、中南米局長は、将来の日本と中南米諸国の文化交流や両国の架け橋になるという認識で日系人の受け入れを議論してきたことを明らかにした。
その三日後、入管法改正案が衆議院本会議で成立した。
当時、大泉町では、真下正一町長の下で中小企業者が合法的に雇える日系人労働者を求めて、東毛地区雇用安定促進協議会の結成を進めていた。改正入管法が成立した十二月、同協議会が設立。大泉は「共生の町」への第一歩を踏み出していた。