2006年2月18日(土)
サンパウロ人文科学研究所の机一つから―。交流協会発足当初の事務局は同研究所の片隅に設置された。「玉井会長や同じ人文研のメンバーであった斉藤さんが机一つで、青年交流についての会議をしてたよ。しょっちゅうここに来てた」と思い出すのは、宮尾進人文研顧問。直接、交流事業には関わってはいなかったが、彼らとは「飲んだくれた仲だ」と笑う。「若者の交流が大事だとしきりに言っていた。協会生とは個人的に関わったことが多かった」。同協会には間接的に協力。研修生も現在まで二、三名受け入れた。
森幸一さん(三期生=一九八三年度)もそのうちの一人。サンパウロ大学で教授をつとめ、主に沖縄移民を研究している。現在は、移民百周年に向けて「リベルダーデの形成と変容」と題した調査を約十三人の学生とともに開始。学術的な面から貢献したい考えだ。
「研修生当時、一年間何もしなかったというのが負い目になった。金儲けじゃないけれど、移民みたいなもんですよ」。研修を終え、約四ヵ月でブラジルに戻る。
貴重な出会いがあった。東北大学の大橋英寿教授(現在、放送大学副学長)。沖縄のシャーマン(ユタ)研究をしていた。「ブラジルでたまたま知り合った。大橋先生からシャーマンについて教わり、彼が帰国した後も研究を続けた」。二〇〇〇年、東北大学で大橋教授のもと「ブラジルにおける沖縄移民と宗教」について博士論文を書いた。沖縄研究の奥深さを知った。
「初めは差別された。ナイチ(本土人)がなんでこんな研究するのか。ナイチはナイチの研究しろとか言われてね、大変でしたよ」。しかし、『ブラジル沖縄移民九十年史』編纂に協力したことで認められるようになった。同史はコロニア文芸賞を受賞した。「沖縄の人たちにとっては大変な喜びだった」と言う。「受け入れられ方のディープさに感激しました。『あんたはナイチだけど、ウチナンチューみたいなもんさ』と言ってくれましてね」。
◎
協会生時代は、斉藤さんの最期を看取る研修となった。『異文化の中で五十年』の執筆手伝いに励んだ。玉井会長には、渡伯前「君は齊藤先生の最後の弟子になる。一刻も無駄にせず、先生の学問を引き継げるように」と告げられていた。
斉藤さんが最期の原稿に手を入れる瞬間を森さんはこう書いている。「一瞬、鬼がいると感じた。異様にくぼんだ目とこけたほお。自己の意志で生きているのは頭脳と目と右手だけだった。赤鉛筆を持った右手が小刻みに震えている。何枚かの原稿にまたたく間に朱が入った。どのくらいの時間が過ぎたのだろうか。出来上がった原稿を私に手渡し、無声音で清書の指示をした。みるみる鬼が先生の体内から去っていった。柔和な顔が残った。それは人生との壮絶な対決を終えたすがすがしい顔だと思った」。(斉藤広志著『ブラジルと日本人』「あとがきに代えて」から。サイマル出版会、一九八四年)
ブラジルへ行くそもそものきっかけは学生時代の指導教官。彼は「トメアス移住地の文化変容」について調査していた。そのメンバーのひとりが斉藤さんだった。(つづく、南部サヤカ記者)
■25年=交流協会生=コロニアと共に=歴史編1=連載(1)=日伯の架け橋になる若者達を=斎藤、玉井氏ら構想「巨木に育てよう」