2006年2月14日(火)
ブラジル日本都道府県人会連合会(中沢宏一会長)主催の「移民のふるさと巡り」は第二十四回を迎え、いろんな意味での原点に還った。第一回で訪れたノロエステ線沿線の移住地を再訪したという意味だけでなく、植民地ならではの温かいもてなし、真摯に伝統を保存しようとする協会役員らの努力、一度もレストランを使わず全ての昼食夕食は各地の婦人部による手作りだったことなど、「移民のふるさと」を再認識させる、心洗われる巡礼の旅であった。数え切れない思い出を胸に帰路についた参加者は、移民の原点をかみしめ、百周年に向けての想いを新たにした。
「あたしは一九三二年にこの駅で降りて平野植民地へむかったんです」。子どものとき、家族に連れられて山本宇一耕地に入った名越ツギオさん(82、北海道)は、懐かしそうに指さす。
その先には、いまは使われていないレンガ造りの駅舎がある。現在のカフェランジア駅ではなく、かつてのペーナ駅だ。市役所ガイドのチアゴさんによれば、同駅は一九〇六年に建設された。
ツギオさんは今回の参加者中、最高齢の一人。平野植民で十五年をすごし、サンパウロへでた。あと二年で、サンパウロ市生活も六十年になるという。
駅舎の横には当時、隆盛をほこった日本人の農業組合倉庫が立ち並ぶ。そのころは最新の精米機や農業設備が備えられていたが、現在は廃屋となっている。
翌一九三三年に平野に入った参加者の一人、竹田敏子さんも「この駅です。でも、もう変わっていて分からないですね」という。
今回もっとも遠くから参加した一人、ブラジリア在住の赤岡純次さん(67、山梨)は「駅にしても、組合倉庫にしても草ボウボウになり、屋根から木まで生えている。あの立派な建築なら、当時は相当の設備があったんでしょう。栄華を偲ばせませすね」としみじみかたった。「ノロエステという名前はいつも聞いていたので、実際に見てみたかった」。
つわものどもが夢の跡――。ノロエステの旅は、思わずそんな言葉が口をついてでる光景からはじまった。
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三日午後十時半にリベルダーデ広場を出発した一行は、四日朝八時過ぎにカフェランジア市役所に到着した。今回は過去最高の参加者数で総勢百二十三人。三台の大型バスはすべて満員となり、この地が移民のいかに縁のある、関心の強い場所であるかを物語っている。
降車した一行は、フィゲイラの巨木の日陰に涼をもとめた。
近隣のリンスに、コチア青年としては初めて入った、同地にゆかりの深い南雲良治団長(70、新潟県人会長)は「アラサツーバの奥は行ったことない。しょっちゅう名前を聞くアリアンサなど、今回知ることができて嬉しい」とあいさつ。
ノロエステ連合日伯文化協会の第一地区会長、佐道善郎さん(69、二世)は「移民が原始林を切り開き、いろいろな困難に直面した現場を知ってほしい。私たちは胸を開き、頭を上げて歓迎したい」との言葉を贈った。
さらに同連合会長、白石一資さん(70、二世)もアラサツーバから駆けつけ、「ノロエステは移民のふるさとです。来て頂いて心から感謝します」と熱烈歓迎の意をしめした。
(つづく、深沢正雪記者)