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「初の抽象画」50年前に描く=「ブラジルのピカソ」間部さん=「マナブ・マベ美術館」建設構想、節目に浮上

2005年12月01日(木)

 独自の画境を開拓し「ブラジルのピカソ」と呼ばれた抽象画家の間部学(1924―1997)が一九五五年に描いた「瞬間の律動」。後年、自伝で「初の抽象画」と位置付けたこの記念碑的作品が制作されて五十年目にあたる今年、サンパウロ市に「マナブ・マベ美術館」が建設される計画が持ち上がっている。その存在を抜きに、ブラジル現代美術史を語れない巨匠だけに、大きな関心を集める。
 「色彩の魔術師とも言われていましたね。それに何より迷いがない絵でしょう。説明的になることを嫌っていました」
 サンパウロ市ジャバクアラ区の間部邸。日本庭園を望む広い応接間の壁には、作風の変遷をたどれる作品群が掛かる。夫人のよしのさんに案内してもらった。
 画業専念を決意したのは一九四二年。油絵は一九四五年から描き始めた。自伝画文集「コーヒー園に雨が降る」(日本経済新聞社)の年譜にはそうある。
 それによると、構成的な絵画に目覚めだしたのが五〇年代。そして写生を離れ、抽象画に「開眼」したのが一九五五年の「瞬間の律動」だった。
 壁の作品を時代順に眺めた。興味深いことに、同年を境にサインも変わっていると分かる。「М・МABE」から「МABE」へ。本人も新しい自分の誕生を予感したのだろうか。
 熊本県生まれ。十歳で来伯し、サンパウロ州ビリグイ、グァララッペス、リンス、アリアンサを転々、コーヒー園などで働いた。
 サンパウロ市に「上京」するたびに、師事していたのが半田知雄、高岡由也ら先輩画家たちだった。没後もそのままの状態で保存してあるアトリエには、彼らの作品も飾られている。
 よしのさんは「これはほんの一部。間部はビックリするほどいいコレクションを持っているんですよ」
 〃東洋人街〃リベルダーデ区に建つ、日本移民ゆかりの旧公立校舎を改装し、同移民百周年の二〇〇八年に開館予定の美術館。
 「日系画家の遺産を風化させないよう、コロニアの宝としてピオネイロ(先駆者)たちの作品も一緒に展示できれば」と語る。
 リフォーム、内装設備などに伴う経費すべて合わせた見積もりは推定一億レアル。現在約二千点まで確認できているという間部作品の「認証登録」とともに今後の大きな課題だ。
 戦後のブラジル美術史を代表する画家だが、まとまった作品が鑑賞できる機会は没後、案外少ない。美術館の常設展示をのぞくと、一般公開されている場所は限られる。
 パブリックアート(公共空間に置かれた作品)ではサントス港の旧要塞内(壁画)、サンパウロ市近郊モジ市コクエラ区(庭園の彫刻)。変わったところで、かつて暮らしていたサンパウロ州リンス市そばゴヤンベ市に、その手によってつくられた「移民の父」上塚周平像が残るぐらいだ。
 約九千平方メートルの邸宅敷地内には修復室や収納倉庫を併設しており、ちょっとした美術館のようだが、「世界のマベ」にふさわしい本格的な美術館の完成が待望されるところ。
 よしのさんも「国内有数のものになればいい」と話している。