グルメクラブ
2005年11月11日(金)
これも金持ち あれも金持ちのよね、きっと。
妻は墓の「品定め」に余念がない。二歳半の娘は供華を見て、「咲いた 咲いたチューリップの…」と歌っている。
二日の「死者の日」。一家三人で、「お盆」の様子を観察しようと、地下鉄クリニカス駅そばのアラサー墓地内を散策していた。
そして、わたしはといえば、内心ほっとしていた。
コンソラソン墓地のほうに行かなくて良かった。あそこには、南米一の大きさを誇るマタラッゾ財閥ファミリーの霊廟をはじめ、さらに壮麗な墓が並ぶ。
もし妻が目の当たりにしたら、「死んでまでも貧乏はイヤね。生きている間で十分よ。将来はこんな立派な墓の中で眠りたいわね」。そう、嫌味をいってくるに決まっている。
家計が逼塞しているときにコンソラソン墓地なんかに行くもんじゃーない。あの世の住処もカネ次第かと思えば、泣けてくる。
空は灰色、少し肌寒い。お盆にふさわしい日だ。が、いまひとつ墓地全体が悲しみの色調に染まり切らないのはなぜか。ビーチサンダル、短パン姿の褐色小僧たちがうろうろしているせいだとわたしは思った。
墓掃除の営業だ。商談が成立すれば、墓に土足でよじ上って、ピンクや緑色の洗剤をぶっかけ泡立て、一応はせっせとやる。その技術は路上の車窓磨きで養ったものだろう、きっと。
花はあっても、お酒やお菓子など故人の好んだ「団子」はどの墓前にも供えられてないと気付いた。墓掃除の少年セールスマンたちに盗られてしまうせいか。
アラサーの歴史は一八八七年に始まる。コンソラソンはそれより早い。一八五六年、市内で最も古い。
この二つの墓地の特徴。それはイタリア系の性と、聖像などの彫刻が目立つことだ。一級品は一九〇〇―二〇年代の作品が多いという。
コーヒー輸出と産業化の好景気に支えられた時代。流行文化はフランスからやってきた。その頃、彫刻家はパリ留学で研鑚を積んだ。あるいはイタリア系ならローマで学んでいる。
そのため、仏伊両国の意匠の波が交互に、この二つの墓地に打ち寄せた。その名残が今なお、縞模様となって確認できる。
両手で顔を覆って慟哭している男性を見かけた。黒いサングラスをかけた妻らしい女性がその肩を支えている。最近身内を亡くしたのだろう。
しかるに、だ。墓場でどんなに悲しみに暮れていたとしても、両足が付いている限り、メシだけはしっかり食うんだよなあ、人間は。
とその後、両墓地にほど近いシュラスカリア・スジーニョの脇を通過するとき、痛感した。にぎわっている。明らかに「死者の日」景気だ。列に並ぶのは墓参りを終えた客だ。
先月発覚して波紋を広げた口蹄疫は人体には無害らしいが、ちょっとな…。コンソラソン街からアウグスタ街に入り、旧市街に向かいながら、他に適当なレストランを探すことにした。
妻がいった。鶏がいいんじゃない、安いし。
でもなー。盆と正月ぐらいごちそうを食べたいだろ。
「死者の日」は一千年以上前のヨーロッパで始まった習慣だ。なら、西欧のクラシックな大衆料理がこの日によく似合う。そう、思っていたところ、ロティスリーの看板が目に留まった。
先日、書棚の整理をしていた。例によって、こんな本あったけ? と手にとってはページをめくるのに熱中し、ちっともはかどらなかった。読み出したらとまらなくなったひとつに、フランスの「マダム・フィガロ」日本版二〇〇四年六月五日号があった。その中で、パリ特派員・村上香住子が「パリ毎日便」でこんなことを書いている。
4月□日
最近フランス料理界は少し自信を失いかけていて、スペイン料理屋ファストフード系の味覚に押され気味だ。三つ星シェフのマーク・ヴェラールのレストランでは、ハンバーガーを出しているという。
(中略)フランス料理のグルメレストランはもったいをつけて、大衆から離れすぎだという反省も多く、このごろはブラッスリーやロティスリー(グリル料理)が見直されている。
その近頃フランスで再評価され始めているらしいロティセリ―の文字を目にしたそこは、アウグスタ街379のボローニャだ。八十一年前にアンニャンガバウー広場・旧中央郵便局の隣りで開業した老舗である、とはアトで知った。
名の語る通り、イタリア・ボローニャからの移民が創始者だ。生パスタも各種あるが、看板のグリル料理のほか、前菜や肉野菜の詰め物類などは、どことなく伝統的フランス料理風。
これもまた、一九二〇年代に顕著だった「仏伊文化融合」の遺産だろうか。
いわゆる総菜屋なので、持ち帰り専門。日曜日には四百羽を売るという名物鶏の丸焼き、アンティチョークとハムの冷菜、ミニ型クスクス・パウリスタ、ロシア風サラダを買って三十八レアルは安い。われわれ三人なら十分だろう。
そう思っていたのだが、案外食べ応えがなかった。料理の減りが不思議と早かった。しばらく考えてみたのだが、どうもそれは、死者の仕業であったような気がしている。