健康広場
2005年10月19日(水)
「これはいったい何だ?」。一九八八年五月。二十八年ぶりに里帰りした日本人男性が、成田空港で税関に呼び止められた。
不審顔で役人が指差したものは、プロポリスの原塊三十キロと液二十リットル。一家の命運をかけて、寺尾貞亮さん(66、長崎県出身)=ピラル・ド・スル=が地球の反対側からかついできたものだった。
プロポリスの知名度はまだ日本で低く、寺尾さん自身、養蜂を始めて五年目。販路開拓に試行錯誤を繰り返していた。
「市民の健康に役立つもので、害を加えるものではありません」。熱意を込めて説明したところ、何とか税関を通してもらえたという。「向こうは、商品をよく分かっていないみたいでしたけど……」。
空港を出て向かった先は、長野県松本市の養蜂新聞だった。寺尾さんが同紙に手紙を送付。プロポリスを紹介した。同紙社長は関心を示し「サンプルを持ってきてくれ」と頼んだ。
「子供も小さくて、経済的な余裕がありません」と寺尾さん。「それなら、私が払いましょう」。顔もみたことのない相手が、旅費まで負担した。〃追い風〃はそれだけで止まらなかった。持ち込んだサンプルを、百五十万円で購入してくれたのだ。
ブラジルで原塊(ゴミや虫の死がいなどを取り除いてパック詰めにしたもの)を一キロ三十ドルで売っていたので、単純計算で十倍以上の値段がついたことになる。
◇◇◇
カステロ・ブランコ街道を走ってソロカバに入り、さらに五十キロ。ピラル・ド・スルまでサンパウロから自動車で二時間三十分から三時間だ。小高い丘の上に、寺尾養蜂産物輸出社がある。抽出工場の新築工事が、急ピッチで進められていた。
「成分分析をするための設備も整えるつもりです。詳しい分析は第三者に頼みますが、フラボノイドの含有量や農薬の有無など、大まかなものはここでできるようになるでしょう。品質を保証するには、分析が欠かせません」。寺尾さん顔をほころばせながらも、表情には厳しさがうかがえた。
この世界に飛び込んでから、原塊を求めマット・グロッソ、ゴイアス、ミナス・ジェライス、パラナ州などを歩き回った。そして極上品と扱われるグリーン・プロポリスに出会い、日本のブローカーと手を組んだ。
米カリフォルニア州に支社を開設。北米、日本、中国、韓国などに輸出し、販売網を拡大している。日本のブローカーは、プロポリスの販売で両国(東京都)にビルを構えるまでになった。
粗悪品の流入で、販売認可の取得・更新に当たって政府は年々、締め付けを強化しているという。「大量生産するために、蜂が吸う花粉を大豆の粉で代用させる業者もいる。そうなると農薬が入っている恐れもあり、政府は神経をピリピリさせているんです」。
エキスのサンプルを保存、抽出日時などを記録させることで、政府は問題が起こった時に責任の所在をはっきりさせることができると踏んでいるのだろう。
「八八年に訪日したころ、プロポリスなら何でも売れた。原塊は緑でも茶色でも黒でも良かった。でも多くの業者が参入し、優良品じゃないと買ってもらえない。粗悪品を出したら、契約なんか何の役にも立ちません」。
信頼を失えば、回復するのはほぼ困難。失敗は一度たりとも許されない。(つづく)