グルメクラブ
2005年9月30日(金)
わたしはいま、ヴィラ・マダレーナ区をぶらぶら歩いている。J・Jの愛称で親しまれ、ジャズや映画など多彩な文化を論じ、買い物とぶらり散歩を愛した植草甚一(一九〇八―一九七九)を思い出している。
彼は、ニューヨークに詳しかった。訪問する前から、まるで暮らしているかのようにその街の事情について語っていた。
『ぼくのニューヨーク案内』の半分以上を、まだ行ったことがない時代にぬけぬけと書き上げたと知ったとき、なんてふてー野郎だとわたしは思った。
しかし、J・Jはまだかわいい方だ。ボギーとイングリッド・バーグマンの名作メロドラマ「カサブランカ」(一九四二)の監督マイケル・カーチスに比べれば。あれはモロッコを舞台にしている映画だが、実はモロッコではワンシーンも撮影されていない。
現地ロケ一切なし。すべてハリウッドで制作されたものだ。それでも、らしい雰囲気を演出しているので、今日まで観客を鮮やかにあざむきつづけている。
五年前になるだろうか、友人の知り合いの男にインドネシア・バリ島に知悉しているのがいた。住んでいたことがあるのかと訊いたら、「ま、ウチに来てみないか」とニヤリ。ヴィラ・マダレーナ区まで連れて行かれた。
ホテル住まいだった。その名を「バリ」といったなんて作り話のようだが、本当だ。部屋にはバリの文献資料が一杯。風景写真で埋まった壁を眺めて、「オレはここで十分、島にいる気分になれるんだ。いつかは実際に行くこともあるだろうけどな」と話していた。
そのホテル「バリ」の前をさきほど通り過ぎたばかりだ。足はモロッコ料理のレストラン「タンジェ」に向かっている。
モロッコ料理を食べるのは初めてだ。
知っていることといえば、日本と同じように床に座る習慣があること。さらに、クスクス(硬質小麦の粉を粒にしたものを蒸して野菜や肉の煮込みと組み合わせた料理)が国民食ということくらいだ。
最近観た映画では、クスクスの入った鍋も地べたにおかれ、家族や仲間で囲んで食べていた。これも日本の文化に似ている。
他にどんな料理があるのか調べてみたら、タジーンという円錐形のふたがついた鍋で調理されるシチューが名物らしい。
クスクスとかタジーンとか、魔術師の呪文のようだ。あまりおいしそうではない。このまま引き返そうか。値段も結構張るようだし。今回は資料だけで書いちゃおうか。
と思ったが、百聞は一見に如かずという。やはり、自分の目と口で確認しないとわたしは書けないな。J・Jや「カサブランカ」の監督のような才に恵まれていないのだから。
それに何より、地中海沿岸の国々の料理は似通っているので、実物を食べてみないことには細かい差異を見出しにくい。「ボーダレス」と呼ぶゆえんだ。
事実、「タンジェ」のお通しがそうだった。ナスのペースト、チーズに近い味のヨーグルト、ナスとトマトとピーマンのマリネの三品。これらが生粋のモロッコ料理かどうか判断つかなかった。アラブ・地中海文化圏料理のレストランならどこで見かけても決しておかしくないものだと思う。
クスクスも、北アフリカ諸国で一般にポピュラーな料理だし。そんな中で、異彩を放っていたのはタジーンだった。タマネギのねっとり感と、オリーブオイル、サフラン、シナモン、レーズン、そしてナッツの風味が特徴的だった。
くだんの鍋ではなく、普通の平皿に盛られていたものの、一応金属のふたに覆われる形で運ばれてきた。給仕の男が開けた。
その瞬間、立ち上った湯気の香りに心躍った。
モロッコ特有の刻印、それは独特のスパイスだけでなさそうだ。ドライフルーツとナッツの存在もまたユニークな気がした。
ただ、わたしは、そんな「エキゾチックな味」とやらが苦手だ。いつまでたっても慣れない。三つ子の「味覚」百までか。肉・野菜・米の中に、フルーツやナッツを確認すると落ち着かないのは、北陸の雪国育ちの証しだと思ってあきらめている。
◎
クスクス、タジーンとも一人前三十レアル前後。食後には、モロッコ名物ミントティーを忘れずに。レストランの住所はヴィラ・マダレーナ区フラディッキ・コウティニョ街1664。電話3037・7223。同街950にもやはりモロッコ料理のレストラン「アガジール」がある。両店とも、入り口から客席までの通路が異常に長い。モロッコ風なのだろうか。