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日系1世初の駐日大使=古里ラパス入植祭に出席=田岡功氏、思いを語る=パラグアイ

2005年9月29日(木)

 【ラパス移住地発=堀江剛史記者】ラパスが一番、世界で住みやすいところ――。昨年八月から駐日パラグアイ特命全権大使として、祖国日本で生活をしている田岡功氏(62)。十五日に行われたラパス入植五十周年式典の壇上で、力強く移住地への思いを語った。大使職を解かれた後は「一世高齢者の福祉問題」を解決したいと意気込む。日本滞在一年を迎えた田岡大使に聞いた。
 「皆も喜んでくれてます。でも、昔通り『イサオ』とか『イーちゃん』と呼ばれるほうが、〃大使〃より嬉しいですよ」
 一年ぶりの里帰りを果たした田岡氏への取材中、顔見知りが次々と声を掛け抱擁を求める。移住地内での信頼は厚い。
 一移民が本国へ大使として帰国。世界にも例がない快挙に移住地全員が喜んでいるようだ。
 昨年九月十四日。東京駅で宮内庁差し回しの馬車に乗りこみ、田岡大使は皇居に向かった。天皇陛下にニカノル大統領からの信任状を奉呈、日系一世初の駐日特命全権大使が誕生した。
 田岡氏は一九五八年、徳島県から、ラパス移住地(旧フラム)に家族五人で移住。十四歳の時だった。
 過酷な開拓生活。功少年も家族の重要な働き手だった。
 「親父によく叱られたもんですよ。何かといえば大和魂でね。『くたばれ』なんて思ってましたけどね」
 現地の中学校に通いスペイン語を覚えた。農業に従事、農協、日本人会で役員を務めるなど移住地を支える半生を送ってきた。
 ラパスに市制が敷かれた八六年、初代市長に就任。 道路の造成、大統領選挙では、県の選挙本部参謀を務めた。その働きぶりが評価され、ニカノル大統領から再三の要請を受けた。
 最初は固辞していたが、「この国に恩返しができれば」と考えを変えた田岡氏はいう。
 「今回の任命は日本人の勤勉さ、真面目さをこの国が認め、日系社会全体が評価されたということ」
 パラグアイ日系農協中央会の会長、外務省研修生として二回訪日。三回目となる今回、大使として祖国の地を踏んだ。
 「二ヵ月間ずっとテレビや雑誌、新聞などの取材を受けましたよ」。田岡氏を取り上げた新聞、雑誌をまとめたファイルはずしりと重い。
 二千五百人と名刺交換。「会いたいと言われて断ったことはないですよ」。この一年は人付き合いを一番に考えてきた。
 国際協力銀行(JBIC)から、一億九千万ドルの円借款供与を受け、イグアスに発電所建設を誘致する計画も進めている。十一月初旬に大統領が訪日し、正式調印する方向だ。
 〃日本人らしくあれ〃と父親から厳格な教育を受け、「今では感謝している」という田岡大使だが、祖国日本に対する視線は厳しい。
 「国策として送りだした日本国民をパラグアイは受け入れてくれた。が、日本は同胞であるデカセギを理解しようとしない」。
 そして、日本の若者に対しても首をかしげる。 「最近、気になるのは辛抱、努力、もったいないという言葉がなくなっていること。私は日本人の誇りを持ってパラグアイでやってきた。今の若者にはそういうものがあるのでしょうか」
 八二年に帰化しているが、大使職を解かれた後は「日本人として年を取りたい」ことから、日本国籍を再取得するつもりだ。
 「(ラパスを)出るつもりはなかったけど、久し振りに戻ったらやっぱりいいですね。『古里』っていう言葉がぴったり。もう日本、パラグアイの両方が自分の国ですよ」
 移住地内にある田岡家の門柱は、大人が二人がかりで抱えるような大木が四本使われている。
 「昔の気持ちを忘れまいと思って。開拓時、倒すのに苦労した大木を探すのに三日かかりました」
 今後の移住地の課題に老人福祉を挙げる。昔はなかった独居老人も数人いるという。
 「戻ったら、残りの生涯を福祉にかけるつもり。やはり、日本人は温泉。入浴施設を作りたい。…僕も年を取ったのかな」。引き締めた表情が緩んだ。