2005年9月9日(金)
コロニア女子教育の先駆者、赤間みちへさんが七日夜九時ごろ、サンパウロ市内の自宅で家族に見守られながら、老衰のため亡くなった。享年百一歳。あと二週間で百二歳という大往生だった。八日は午後二時まで自らが創立したピオネイロ校で通夜が行われ、その後、ピニェイロス区のサンパウロ墓地で葬儀が行われた。
赤間さんは一九〇三年九月に宮城県柴田郡で生まれ、東北女子職業学校で五年間教職をとったあと、赤間重次氏と結婚、三〇年にモンデビデオ丸で移住した。同年からレジストロで日本語教師に。
「入植したレジストロで娘さんたちを見ると、体ばっかり大人になって、そのままお嫁に行ってしまう」(『顔』一百野勇吉著)と心配し使命感にかられて、三三年にはコ・フルタード街にサンパウロ裁縫女学校を設立。以来、戦時中には即刻退去命令、官憲の家宅捜索、閉鎖命令など数々の困難を乗り越え、数多くの子女を育てあげた。
戦後も勝ち負け騒ぎの中で赤間校長は敗戦派だといわれ、父兄が一カ月で五十人も生徒を辞めさせ、教師も二派に分かれて反目。東北人の粘り強さと〃男まさり〃の気性で暗い季節を耐え忍んだ。
一貫して日本語、行儀、情操教育などの重要性を訴え、講演活動なども積極的に行った。戦後五八年、全財産を投じて財団法人赤間学院に改組し、七一年には政府公認ピオネイロ校に発展。新校舎建設にはアマゾンまで募金の独り旅にいった。当時から高校部創設を夢として語っていた。
現在では、幼稚園児から高校部まで九百人以上が通う市内有数のコレジオになった。
受章歴は、六七年ジョゼ・ボニファシオ章、七三年アンシェッタ章、同年日本政府から勲五等瑞宝章、八三年オールデン・ド・イピランガ章、二〇〇一年USPから表彰など多数。