2005年8月11日(木)
【ポッソス・デ・カルダス】自称「寒稽古屋」の松尾三久さん(62、ブラジル講道館有段者会メンバー、ポッソス在住)は、去る七月、南マ州のコルンバとカンポ・グランデに出向いて寒稽古を指導した。松尾さんによれば、寒稽古に行くのは「借金返済のため」である。ポッソスの自身の生徒たちに買った柔道着の代金が生徒たちから徴収できていないのと、中古のタタミ(六十枚)の債務である。しかし、寒稽古で指導することに、生き甲斐を見出していなければ、わざわざ遠隔地に出掛けられるものではない。
恒例のポッソスの寒稽古は、七月十一日から十六日まで行った。最終日、十四人が初段試験を受け、全員が合格した。南ミナス柔道昇段規則によって「投の形」のほか「固の形」「柔の形」そして「極の形」もできなければならず、たいへんだったが、全員よく覚えた。
十八日朝、サンパウロ市経由空路コルンバへ。同日から二十二日まで、寒稽古が「ブラジル第六海軍」のなかの施設(道場)で行われた。午前二時間、午後二時間、夜二時間合わせて六時間。参加者は四歳から四十四歳までの約八十人だった。道場が始められてまだ二年だが、生徒たちの躾はよくできていた。靴など履物は揃えられており、帯の締め方、受け身の仕方、礼法もちゃんとしていた。指導者はサルジェント・アントニオ二段。
松尾さんの宿舎も海軍施設のなかにあった。なぜ、海のない南マ州に海軍があるのか。ブラジルとパラグァイ、アルゼンチン、ボリビアは、パラグァイ河などの大河が国境になっており、その千五百キロの国境線を警備するため一八七三年に創設されたものだ。
兵士は千二百人。数名の司令官のうちの一人、日系二世の和田ノリアキ氏が三年前、リオから着任してすぐ柔道場建設を提唱して実現させ、イナウグラソンにアウレリオ・ミゲール選手や石井ヴァニア選手を招いた。百二十畳のタタミ、クーラーがついた立派な施設だ。柔道着も海軍の費用で購入されている。ポッソスとはエラい違いである。
今度の寒稽古は、カンポグランデのも含めて和田司令官が準備してくれたのである。同司令官は一カ月前、リオに転勤した。電話で「松尾さん、リオにも柔道場をつくりますから、寒稽古をリオでやりましょう。リオのあとはレシフェに行くことになっていますから、そこでもやりましょう」と言っている。和田さんの後任のパイン司令官も「青少年に柔道を」と情熱を持っているそうだ。
コルンバからカンポ・グランデにはバスでパンタナルを横切って移動、寒稽古は二十五日から二十九日まで行った。出迎えたのはマルコ・モウラ四段。二十四日、マルコさんに連れられ、マルコさんの先生にあたる怱滑谷暁(ぬかりやさとる、76、四段)さんを訪ねた。
マルコさんによれば「先生ほど技の切れる人はいない」。怱滑谷さんに直接きいてみると、柔道は父親・安美(やすよし)二段から教わった。安美さんは嘉納治五郎の直弟子だ。証拠の写真があった。明治四十二年(一九〇九年)の講道館紅白試合に出た際のものだった。嘉納の前後に、かの三船久蔵、中野正三らと一緒に写っていた。
安美さんは、昭和五年(一九三〇年)に移住した。若いときから剣道、水泳も達者な万能選手だったという。運送業、整体師をしながら柔道を指導した。移住の動機は、関東大震災ですっからかんになったため。ブラジルでは「自分は、嘉納先生にもらった二段で十分だ」といい、八十八歳で亡くなるまで二段で通した。暁さんの息子・純さん(36)も柔道二段。三代柔道一家である。松尾さんは、カンポ・グランデで知ったことを講道館有段者会に報告しよう、とポッソスに帰った。
なお、去る七〇年五月某日のオ・エスタード・デ・サンパウロ紙には「世界でもっとも強い老人」として、毛沢東と怱滑谷安美さんのことが書かれている。どういう見方をしたのかは定かでない。