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若かった時代を思い出し入植祭=アレグレ植民地80周年祝う=「里帰り」組ら500人集まる

2005年7月26日(火)

 アレグレ植民地入植八十周年記念式典が二十四日、サンパウロ州ブレージョ・アレグレ市のアレグレ日伯協会会館で開かれた。ビリグイ市近郊に開かれ、かつては三百以上の日本人家族で栄えた同植民地。十九家族まで減少した今も、五年ごとの入植式典を守りつづけている。当日は州内外の各地から、同地の出身者約五百人が「ふるさと」を訪問。会場の各所で懐かしい顔との再会、お互いの無事を喜び合う人たちの姿が見られた。
 ビリグイから北に約二十五キロ。チエテ川沿いに位置するアレグレ植民地は一九二五年に入植が始まった日本人植民地。三千アルケールの土地は東部アレグレ、コレゴ・セッコ、マクコ、パライゾの四植民地に分かれ、一九三〇年代の最盛期には三百以上の日本人家族で栄えた。
 カフェや綿の栽培で発展したが、生産過剰による政府のカフェ廃棄政策や土地の衰弱により植民者の流出が進み、現在は二十数家族まで減少した。四植民地にそれぞれあった日本人会は会員の減少により合併。現在は牧畜業などを営む十九家族がアレグレ日伯協会として活動している。
 この日の式典には州内外の各地から同植民地の出身者が集まった。ビリグイやアラサツーバ、クレメンチーナなど近郊の町をはじめパラナ州の各地、ミナス州から訪れた人もいた。サンパウロからは、同地の出身者でつくる「アレグレ・ビリグイ郷土会」(酒井清一会長)の一行三十五人が参加した。
 式典に先立ち、市内の教会跡地に立つ入植五十周年記念塔の前で先亡者の追悼法要が営まれた。約五十人が参列。アラサツーバ南米本願寺の高科大行開教使の読経の中、先人に祈りを捧げた。
 会場を移し、会館運動場の開拓記念碑前で追悼法要。続いて会館で記念式典と敬老会が開かれた。同市市長をはじめ、ノロエステ連合日伯文化協会の白石一資会長、五十嵐二郎顧問やノロエステ各地の文協会長が来賓として訪れた。
 あいさつに立ったアレグレ日伯協会の葛篭(つづら)猛会長は「遠方から大勢の人に来てもらって非常に喜んでいます」と謝意を表した。続いて同婦人会の葛篭マリコ会長が「植民地を支える家族の努力と支援に感謝したい」と語り、「若かった時代を思い出し楽しい一日を過ごしましょう」と呼びかけた。
 同協会では八五年の入植五十周年から現在まで記念の式典を開催している。当初は十年ごとだったが、参加者の高齢化にともない近年では五年ごとに実施している。
 十二年にわたって同協会の会長をつとめる葛篭さんは「住んでいる家族は少ないけど、皆さんががんばってくれるので盛大な式典を開くことができます」と語る。葛篭さんは最近体調を崩したそうだが、式典当日は元気な姿を見せていた。
 この日会場を訪れた人は約五百人。かつての入植者や同地で生まれ育った二世、父母の故郷を訪れた子供たちの姿もあった。
 パラナ州アラポンガスから参加した玉利浩二さん(65)は十歳までアレグレに暮らした。このたび兄の毅さんと約四十年ぶりに同地を再訪。戦前最後の日本語教師をつとめた父、清治さん(故人)の写真を携えて訪れた。「父のことを知っている人に会えました」と嬉しそうな表情を見せた玉利さん。自身も同級生たちとの再会を果たした。
 この日来賓として訪れたビリグイ文協の大森常夫会長もアレグレの出身。三十四歳まで同地で過ごした。「(アレグレ)は第二の故郷。十九家族になっても守ってくれる人たちに感謝したい」と語る。
 式典終了後、会場では昼食がふるまわれた。五百人を迎えるため、婦人会を中心に二日前から準備を進めたという。訪れた人たちは食事を囲み、五年に一度の「里帰り」を満喫していた。