グルメクラブ
4月15日(金)
パリ。サンパウロ市に来たばかりのとき、そんな名前の地区があると知ってひそかに心躍った。
それは巴里と同音である。ベレー帽をかぶった窈窕たる女性の子犬を連れて散歩している光景がまぶたに浮かんだ。「オー・シャンゼリゼ」を口ずさみ、最寄りのアルメニア駅(当時はポンテ・ペケーノといった)まで行った。たまげた。
どぶ川、毛の抜けた野良犬、ゴミを拾ってリヤカーを引く褐色の男。巴里はそこにはなかった。代わりに、サンパウロの現実をかいまみて、ブラジル暮らしの多難を予感した。
後年、パリ区を再訪した。今度は隈なく歩いた。そのときの発見について、以前この欄に書いた。
「サンパウロの民族的多様性を最も実感できる街はどこか。それはパリ区だろう」
韓国親父の鯛焼き屋台があった。ボリビア人協会のド派手な外装が目を引いた。ハラルの肉屋も見かけた。ハラルとはコーラン用語で「合法の」を意味する。イスラムの作法に従って屠殺した肉を売る店だ。そうした多文化共生タウンの様子を報告した。
先日、三度目の訪問を果たした。駅裏のアルメニア系教会に人出があった。界隈は駅名通り、アルメニア移民ゆかりの土地だ。パリ区のもうひとつの表情である。ペドロ・ヴィセンテ街を十分ほど行くと、カンツタという珍しい響きの広場に出る。毎週日曜にボリビア移民の青空市が開かれている。カンツタとは同国を象徴する花である。
サンパウロ市内には現在、パラグアイ二・五万、チリ二万、ペルー一万、そしてボリビア五万の移住者が暮らす。ボリビア人の大半が韓国人経営の服飾工場で昼夜問わず働いているのは知られている。五万と書いてみて気づいた。この数字は韓国系社会の構成員と同じだ。「勝ち組」「負け組」の明暗が一層浮かび上がる感じがする。
南米では、貧困と音楽の強い結びつきを実感する。ときに過酷な現実が偉大な音楽を生む。ジャマイカのレゲエ、キューバのサルサ、ブラジルのサンバ。そしてボリビアのフォルクローレ。市場で最初に目を引かれたのはアンデス独特の笛だった。雑貨を扱うどの屋台でも売っていた。
広場の中心には小さなサッカーグランドがある。日が暮れるまで数チーム交代で試合をくり返していた。サッカーをやる。のどが渇く、腹が減る。屋台で郷土のフルーツジュースと料理を飲食する。好連携である。
シロップ漬けのアンズが入ったマテ茶を飲みながら一巡する。食材の屋台では母国から輸入したというバナナが並んでいた。ビールもあった。お菓子やパンもあった。主食のトウモロコシとジャガイモは大量に見当たる。その形・大きさ・色はさまざまで、料理に合わせて使いこなしているのだと分かる。友好の印に缶ビール(三レアル)を購入。銘柄をパセニャという。国際的コンクールでの受賞歴を記す外装は高級感がある。
市場では軽食、スープから揚げ物、煮込みまでが食べられた。一部を列記すると、フリカセ、ソッパ・デ・マニ、鶏・豚・淡水魚の揚げもの。付け合せは、ざっくりと切ったフライドポテト、チョクロ(大粒白色のトウモロコシ)、パスタ、香辛料と酸味が効いたサラダなどだ。
フリカセは豚肉を油で炒め、タマネギやニンニクで煮込んだ料理。香辛料はクミン、黒胡椒、オレガノ、アヒ・アマリージョ(黄トウガラシ)。フランス料理に原型がある。ソッパ・デ・マニはピーナッツのスープだが、豚骨スープのようだと、これも前に書いた。国民的軽食のエンパナーダ、サルテニャ、プカカパはいずれも肉・野菜を包み焼いたもので、見た目は区別がつきにくい。エンパナーダは汁気が少ないが、サルテニャはスープをたっぷり含む。プカカパは大型の円盤形だ。
感動したのは、シナモン氷菓。その製法は小学校の理科の授業を思い出した。高さ一mくらいの寸胴鍋にシナモン風味の紅い砂糖水が入っている。鍋は氷水が入った容器の中で冷却されているため、かき回すうち、鍋の内側にうっすら霜が出来始める。これをかき集めて「アイス」として売っている。アンデス文明の遺産と言えるだろうか。インカアイスと呼びたいくらいだ。
料理のつくり手はなべてずっしりとした体格の浅黒い女性である。かつてパラグアイに旅行したときに感心したことがある。ブラジルの食堂・バールでは調理人と給仕は男性の場合が多いが、パラグアイには女性コックに女給がいた。それはインディオ文化が基調を織り成す社会ならではの事情だろう。インディオを遠い祖先に持つ日本もそうだ、オフクロの味とサービスが大衆食堂の要だ。
なぜか床屋が二軒も出店していた。仮設小屋の壁に貼られた、日活映画スターのような髪型見本が並んで映るポスターには泣けた。散髪代は四レアルという。屋台料理よりかろうじて高いくらいだ。サッカーで汗を流し、故郷の料理を食べ、満腹になったところで、仕上げに髪形を整える。ボリビア移民だけが堪能できる、巴里にもない三つ星フルコースである。