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ブエノスからの「放蕩」によると―3話=西欧料理は落ち着く

グルメクラブ

3月18日(金)

 ブエノスの刑務所、一つの独房で展開されるホモセクシャルと革命家の会話が、冒頭から延々続く。アルゼンチンの作家マヌエル・プイグの「蜘蛛女のキス」は一九八五年にブラジルで映画化され、世界的な話題を呼んだ。一九六〇年代末に、ブラジルに移住したアルゼンチン人エクトル・バベンコが監督した。
 「ブエノスアイレスですか。魅惑的(退廃的)な街のイメージですね……。実際はどうなんでしょうか」
 岩手県に住む知人の放送作家に、ブエノスに行くのだとメールで告げたら、こんな反応が返ってきた。くだんのプイグや、幻想文学のホルヘ・ルイス・ボルヘスが少しでも頭にあれば、そのイメージも分かるような気がする。コカイン中毒のマラドーナもいるし。
 香港の映画監督で日本人にも人気の高い、ウォン・カーワァイ監督のヒット作「ブエノスアイレス」は、ブエノスの街並みやタンゲイラを背景に、男同士の刹那的な恋愛を描いた話だった。二日目の夜、その「ブエノスアイレス」の話題が出た。東京から来た、企業広報を担当する女性は夕食会の席で言った。
 「南米、憧れてました。映画で観ていますから。チェ・ゲバラの青年期を扱った『モーターサイクル・ダイアリーズ』にはブエノスが出てくるでしょう。それに『ブエノスアイレス』。タンゴの場面、良かった。ロケ地、見学に行けないかしら」
 彼女たちの「南米」に、ブラジルは含まれていない。記事は日本語だが、題名はイタリア語かフランス語の、分厚い女性誌を定期購読する日本人キャリアウーマンが憧れる南米の国は、アルゼンチンかチリと相場が決まっている。
 ボサノヴァを聞いて、ブラジルに目覚めるOLはいるが、ボサノヴァは必ずしもポ語で歌われる必要はない、と彼女たちは考えている。それは日本語や英語であってもいい世界だ。いや、むしろ英語で歌われる方がずっとオシャレだと。
 リオのファヴェーラの実録物「シティ・オブ・ゴッド」。そして、南米最大規模の刑務所で実際にあった暴動を再現した「カランジル」。日本で近年公開されたブラジル映画を観て、ロケ地に行きたいと願うキャリアウーマンがいたら、それは不倫に疲れた自殺志願者だろう。「不倫と南米」は、吉本ばななの小説の題名でもあった。
 「ブラジルですかァ? うーん、やっぱりアマゾンに日系の方がいらっしゃって……。えっ、全国に百四十万もいるんですかァ?」
 スペイン料理のレストラン「ムゼオ・デル・ハモン」で、トルティージャ(ジャガイモなどが入ったオムレツ)など前菜のタパス(小皿料理)をつまみ、シャンパンやワインを飲んでいた。彼女はスペイン料理に親しみがあるようだ。和製英語が交じる会話を続けるうち、ギンザか、アオヤマにいるような気がしてきた。哀切なブラジル移民史を語る状況ではなかった。
 味覚の欧米化を果たした日本人は旅先がアジアであっても、南米であっても、外国旅行で欧米料理を食べると妙に安心する。かく言うわたしも落ち着く。舌がその味に慣れている上、メニューを見て、注文に困ることも少ない。現地の料理を試す好奇心はあるが、不潔そうなものはイヤだ。以前ブラジルに来た母親に、アマゾンやノルデステの郷土料理を連日薦めたら拒絶された。シュラスコこそ歓迎してくれたが、三日目にはスパゲティにしてくれ、最後はマクドナルドでもいい、と騒ぎ出した。
 その点、日本人旅行者にとって、アルゼンチンでの食事は理想的だ。肉は日本人好みの柔らかさ、イタリア・スペイン系の食文化も浸透している。レストランの感じも、ブエノスでは総じて洗練されている。
 われわれは生ハムをかじり、パエリアを食した。日本のスペイン料理とさほど味が変わりない。最後にシャンパンが登場した。どうやら今夜も金払いが良かったらしい。

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