3月11日(金)
カンポス・ド・ジョルドンに上る山道の半ばを過ぎてからまもなく、左に折れると、日系人の部落に入る。サント・アントニオ・ピニャール市レノーポリス区。カンポスと同様一九三〇年代に、ニンジン景気に沸き、最盛期には約五十家族の日系人が暮らしていた。戦後地力の低下とともに、移住者の多くが転住。それとともに、日系社会からも忘れられた移住地になった。同市内には、今なお二十世帯が居住。細々とコロニアを形成している。
サント・アントニオ・ピニャール市の中心街から、四キロ。歩いても、一時間ほどで到着する距離だろう。だが、途中からは土道で凹凸が激しく、引き返したいくらいの気分だ。
実は、幹線道路に「バイロ・レノーポリス」の標識があり、そこを入れば一キロ足らずだが、誤ってひとつ手前を左に折れて市内を目指してしまったらしい。
「かつては、同区に鉄道駅があったため、山深い場所に住んでいても、収穫物を輸送するのに苦労はしなかったんですよ」
サント・アントニオ・ピニャール日本人会会長の片山茂さん(72、愛知県出身)はそう言って、快く出迎えてくれた。
一九二〇年代後半。一帯の土地がロッテとして、売りに出された。「そのほとんどを、奥地にいた日本人が買いました」(片山さん)。
カンポス方面は、肺結核の療養地として知られていた。故細江静男医師が、サンパウロ州奥地の移住地を巡回し、サント・アントニオ・ピニャールを紹介した。
片山さんの父親は、プロミッソンなどのコーヒー園に入っていた。カフェを収穫する時に、たくさんの塵を吸って肺を痛め、新たな新天地を求めて、同市に来たという。
「ここは、カンポスよりは五度くらい気温が高いですが、気候がよいので、八十二歳まで生きられました」。
妻、文子さん(68、二世)の母も肺を患い、バストス方面から移った。日系移住者の多くは、病気療養と仕事を両立させるために、サント・アントニオ・ピニャールに移転して来たようだ。
カンポス一帯は州内で屈指のニンジン産地として栄え、鉄道を利用してタウバテ、リオ方面に出荷した。 「最初は借地農だったんですが、数年で自作農になれました」と片山さん。今は、六アルケールの農地を所有している。「青年会が活発で、野球などのスポーツが盛んだった」。
ところが戦後、連作障害から、ニンジンの収穫量が落ち、脱耕者が相次いだ。「最初は土地を借りて入るけど、中々赤字が解消されず、多くはこの地を諦めてしまったんだと思う」。
人文研が出版した『消えた移住地を求めて』には、消えたと思った移住地がまだ存在していたと同地が紹介されている。
その後、移住地は養鶏、果樹栽培などと営農形態を模索。蘭栽培に活路を見出した。移住者は、五十世帯から、二十世帯に減少したとはいえ、日本人会も存続。新年会を始めとする季節の祝いをしている。
「婦人部による料理や手芸が、最も勢いがあるかな」と片山さん。七〇年代には、日系初の市議に当選。日系人の存在感を市民に誇示した。入植五十周年記念に、三角塔を「バイロ・レノーポリス」の標識の道路を隔てた向かいに建てた。
「身の丈にあった活動を展開させたい」ということで、小ぢんまりと会を運営することになっているという。二〇〇九年には、入植八十周年を祝う考えだ。
「カンポスは開発が進んで山がはげてきている。ここは将来性のある土地。タウバテなどから通勤圏ですよ」。片山さんは再び、日系人が増えていくにことに期待を込めた。