3月10日(木)
約三百四十機のB29が東京上空から無数の焼夷弾を落とし、一夜のうち首都が焼け野原に、そして十万人以上の犠牲者が出た。ちょうど六十年前のきょうの出来事だ。高齢化などのため、東京大空襲の実体験を語りつぐ人は少なくなった。「平和な世の中になるよう、悲惨な歴史を消してしまわないでほしい」。ブラジルに移住した被災者は、そんな切実な思いを込めて、三月十日を迎えた。
一九四五年三月十日未明、鳴り響く空襲警報に、多羅間俊彦さん(サンパウロ在住)は叩き起こされた。当時は毎日のように爆撃機の襲来を受けていたため、避難がすぐに出来るように、防寒衣を着て就寝していた。この日は、いつもと違った。
「B29が次々に現われて、驚くほどの低空飛行をしていたんです」。
標的は自宅のあった麻布ではなく、深川方面だと分かった。高台からは、焼夷弾が落ちる様子が手にとるように見下ろせ、不安のまま夜明けを迎えた。
「日の出が近づくに従って、東京湾から隅田川のあたりの上空が、視界が遮られるほど煙に覆われているのが見えてきて、腰を抜かした」。
鈴木寿さん(68)は、港区の自宅にいた。七発の焼夷弾が直撃。父が家族に避難を命じ、目黒の親戚宅を頼った。
燃え盛る火の手や煙を避け、地面を這うように進んだ。「大した距離は無かったんですが、到着するのに一時間以上もかかりました」と鈴木さん。途中に機銃掃射を受け、命からがら逃げた。
「まだ幼かったので記憶は曖昧なんですが、とにかく恐ろしかった」。翌日帰宅してみると、風呂桶が転がっているだけで、自宅は惨めな姿に変わっていた。
「逃げてもダメかなと思って、しばらく状況を見守っていた」。
大きな被害を受けた台東区浅草。中野光雄さん(74)は「まさか大通りを飛び越えて、向かい側から自宅の方に火が移って来ないだろう」と静観を決め込んだ。
ところが、爆風などで外れた雨戸に火の粉がついて飛んできた。さらに隣家に、焼夷弾が落ちて木造住宅などに燃え広がり、その場にとどまることが出来なくなった。
近くの国際劇場の地下に一旦、家族とともに避難した。建物の地上部分が炎上して、地下も危険な状態になったため、劇場隣の防火帯にあった小学校校舎まで逃げ延びた。
「防火帯のおかげで、退路を絶たれないで済み幸運でした。でも電柱が倒れてきて、小学校までたどり着くのは命がけ。這っていきました」。
空襲が鎮まって、避難先から四キロ先の親戚宅に身を寄せることになった中野さん。道すがら、惨状を目の当たりにして愕然とした。全身黒焦げになって、男女の区別もつかないような死体が至る所に転がっていたからだ。まだ息があって、呻き声を上げる人もいた。
「拾ったリヤカーに荷物を載せて引いた。死体も踏んだ。でも、その時は夢中だったから、何も考えなかった」。極限状況の中で、人間の心を失っていく自分がやりきれなかったという。
「今もイラクなどで、戦闘が続いています。これぐらい馬鹿げたものはありません。平和な世界になってほしい」と、六十回目の記念日を迎えるに当たり、そう願いを込めた。