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牧場主への道①=マット・グロッソ・ド・スル州=辻光義さん講演=1万5千㌶を所有=コチア〃不良〃青年の格闘

1月29日(土)

 「自分の仕事に関しては誰にも負けない。そのプライドが大切――」二十四日から二十八日まで開かれた第五回日系農協活性化セミナーで牧畜経営者、辻光義さん(66)が『牧場主への道』というテーマで講演を行い、熱を帯びた口調でこう語った。一九五九年、コチア青年としてブラジルに移住。その後、勝ち気な性格から〃不良青年〃というレッテルを貼られ、周りから敬遠されながらも、おのれの力を信じ、いかなる時もあきらめずに農業を続けたことで、現在ではマット・グロッソ・ド・スル州に一万五千ヘクタールの牧場を持つに至っている。

 「一匹狼とかそういうのに、どうも血が騒ぐたちでね。小さい時から自然と海外雄飛というのが心の中にあった」
 農家の三男として福岡県に生まれた。幼い頃から周りの大人たちがする満州開拓の勇壮な話に心をときめかせていた。
 中学を卒業し、熊本の通信電波専門学校に入学。だが、自分の能力ではついていけない、と中退した。その後、北海道へ家出する。荒くれ者の性格は当時から十分にあった。
 十八歳になり自分の人生を真剣に考え始めた。そんな時、実家に帰る途上、岡山駅でコチア青年募集のポスターを見た。「思い切ってブラジルに行けば、満州以上に心が高鳴る」
 そう思ったが、両親は「ブラジルへ行くのは棄民だ」と猛反対。未成年の場合、コチア青年移住には親の承諾書を必要としていたため、断念せざるを得なかった。養鶏の技術を身につけながら、二十歳になるのをまち、再び応募した。しかし、家族は今回も認めてくれない。そんな中、祖父だけが、背中を押してくれた。「行きたいなら、行かせてやれ。こんな日本におっても、先行きはどうなるか分からん。ブラジルの方がよいだろう。夢がある」。
 この言葉に父親も折れ、「ブラジルへ行くのは認めるが、泣きを入れて帰ってくるな」と言って送り出した。
 成功するまでは日本に帰れない――この時の父親の発言がその後の辻さんの生き方を決定づけた。
 コチア青年には四年間の契約労働期間が義務づけられていたが、「私はカマラーダをしにブラジルに来たんじゃない」と、しばしばパトロンとぶつかった。そして、四年後の独立の時のことを考え、「この期間を利用してブラジルを知った方がいいと思い、放浪の旅をした」
 六三年、ポンタ・グロッサから南へ五十キロのパルメイラで独立を果たした。「自分としては何がなんでも独立するつもりだった」 しかし、四年間の間に辻さんの悪評はコチア産業組合の中に知れ渡り、誰もが辻さんを白い目で見ていた。通常なら受けられるはずのコチアの支援が受けられなかった。
 独立当時のパトロンがこの窮状を救った。「本当にやるきだったら」と、種イモ六十俵と、肥料一トンを融資してくれた。そして、ブラジル人に借りた一アルケールの土地でジャガイモ作りを始めた。
 「一回目を失敗したら、〃ざまー見ろ〃と言われる。失敗する訳には行かなかった」
 他の農家の多くが一アルケールあたり五百から六百の収穫しかできず、ジャガイモも相場の低迷と相俟って資金難に陥る人もでるなか、食べるものも切り詰め働き、辻さんは八百俵の収穫を得た。
(つづく、米倉達也記者)