1月5日(水)
サンパウロ日伯援護協会(和井武一会長)の新事務局長に具志堅茂信次長(63、沖縄県出身)=モジ・ダス・クルーゼス=が昇任、今月三日から采配をふるっている。入植数カ月たらずで、ほとんどの移住者が脱耕してしまったと言われる「カッペン移民」(マット・グロッソ州)の一人で苦労人だ。援協は今年の役員選挙で和井会長(92)が退任する可能性もあり、過渡期における実務責任者として重責を担うことになる。
五九年、十六歳の時に家族七人で渡伯。父親と弟たちがまず、クイアバから五百キロの植民地に向かい、具志堅さんは母親や妹とカンポ・グランデ市(クイアバから九百キロ)に留まって、呼び寄せの知らせを待った。
ところが、植民地は原始林の中に位置。最寄りの市場であるクイアバ市まで、道路も舗装されておらず、輸送コストだけでも、ばかにならない額に上った。具志堅さんは「米を植えても、売りにいくところが無かった」と、当時のやりきれなさを明かす。
父親は五カ月で植民地に見切りをつけ、コーヒーの歩合作に望みを託した。が、そのコーヒー園も二年間放置されたままの状態で引き継いだので、収益を上げるどころではなかった。
一家に暁光が見え始めたのは、その後ゴイアナーポリス(ゴヤス州)でトマト栽培を始めてから。「ポルトガル語を覚えたほうが、生活がしやすいと思って日系人の少ない土地に移った」と具志堅さん。
しかし、故郷の祖父は息子一家の生活に気を揉み、親戚に旅行費用を携行させてブラジルに向かわせたという。「もともと移住には反対で、ブラジルの山中にいたら土人化してしまうと、祖父は思ったようでした」
サンパウロに移るという条件付きで、一家は日本への引き揚げは免れた。サンパウロに出てきたといっても特に当てがあるわけではなく、具志堅さんはタクシーの運転手を皮切りにバール、鶏肉店など職業を転々と変えた。
そんなある日、目に止まったのが援協職員の募集広告。八二年のことだった。職種は運転手だったが、面接や筆記試験を受け、一カ月後に採用が決まった。予想に反して配置されたのは援協診療所の助手。山下忠男診療部部長(当時)の下で仕事を始めた。
その後、八八年に同部部長、九四年に日伯友好病院受付コーディネーター、九八年に本部事務局次長と昇進した。実はこの間、一年七カ月ほどデカセギにいったが、「医療、福祉の仕事は世のため、人のためになる」と思って古巣の職場に戻ってきた。
援協の年間予算は四十六億円、自由契約などを含めて職員数は千六百人に達する。新事務局長は「事業を大きくするより、人材育成など中身を充実させていきたい」と従来の方針に忠実な姿勢を見せる。脳裏には、旧コチア産業組合中央会や旧南米銀行の崩壊が鮮明に残っているからだ。
「病院の基金は多額にある。でも、支出だって膨大な金額になる。だから赤字を出さないことが大切。施設が赤字になるのは、仕方がないけど、いざという時は、事務局がしっかりしていないとダメ。理事会と二人三脚でうまく歩調を合わせ、堅実な運営を目指していきたい」と力を込めた。