今はもう無くなったが「集団就職」というのがあった。中学校を卒業すると農村の子供たちは汽車に乗って十時間も二十時間も掛け東京の町工場や左官屋の親父を目指し期待の胸を膨らませる。昭和二十年代の半ばから始まり、北海道や東北からの列車には二十人、三十人もの若者らの熱気で満ちていた▼上野駅は白い旗を持った引率の教師と子供らの姿で彩られ三月から四月始めの風物詩を描いたのも懐かしい。農村国家だった日本も工業が主体になり労働力が必要になってくる。故・池田勇人首相は「人間は資源」と語り東京の整備や造船など工業国家の育成に勤めた。九州や四国からは大阪へと向かったし列島中が工業化へと進んだ。農村人口は都市に集まり、東京と大阪は巨大都市になって過疎村という飛んでもない社会問題を生み出しもする▼農村人口は減りに減り続け今や僅かに九四〇万人。このうち六五歳以上が二八五万六千人で、三一%を占める。農家戸数も前年比四万四千戸も減って二一六万戸。これでは食糧の自給率が四〇%も致し方あるまい。今や国民食ともなったラーメンの国産率はたったの七%という数字がある。小麦粉は外国産、あの焼き豚の食材も輸入。醤油や味噌を造る大豆も。店に灯る電球の石油もタンカーで運ばれてくる▼恐らく―スープの水は国産だろうが、何とも哀しくもお寒い。こんな厳しい環境の中でも農水省は健全な農家を育てたいと頑張っている。が、要諦は一つ。三十ヘクタール農家を育て機械化を進めるに尽きるのではないか。 (遯)
04/08/03