グルメクラブ
6月25日(金)
冬はクリームが恋しくなる。雪を連想させる色のせいかもしれない。その味に仄かなぬくもりを覚えるためでもあろうか。
日本では冬になると、クリームシチューのテレビCMがしきりに流される。雪がしんしんと降る寒い夜、一家団欒で取る夕食はアツアツのクリームシチュー。そんなイメージをいつしか脳裏に刻み込まれた。
ブラジルに渡って幾年月、冬のメニューにクリームを用いた料理がほとんど存在しないのは、そうしたせいもあって寂しい。これはひとり私だけの感慨ではないだろうと思う。
乳牛には事欠かない国なのに、クリーム系の料理に興味があまりないよう映るのはどうしてだろうか。
冬の国民的行事である六月祭やロデオが問題だと私はここにきて真剣に考えるようになった。火を炊き踊る六月祭。猛牛を乗りこなすロデオ。柔和なクリームなぞ出る幕はないのだ。
でも凍える体を抱え欲求は募るばかり。それなら、と思い出したのがアイルランドだ。理由は単純。アイリッシュ・コーヒーの存在が頭にあった。知ってますか、そのレシピについて?
あらかじめ温めておいたグラス(ワイン用)に好みの量の砂糖を入れ、ウイスキー三〇ミリリットルを注ぐ▽ゆっくりとグラスを火であぶり、ウイスキーに火をつける▽ホットコーヒーを八分目まで入れ、ホイップクリームを加えて完成。
アイルランドではブラジルのケントォン、ヴィニョ・ケンテなどに相当する冬のアルコール入り飲料の定番。ダブリンの空港で飛行機を待つ客が体を温めるのに考案されたとも言われるが、漁から帰った海の男たちが家でこれを飲んで疲れを癒したと考える方がよりロマンがある。
ウイスキーはその発祥の地と呼ばれるアイルランド産を用いるのが正統。ブラジルでもブッシュミルズ、タラモアデュ、ジャイムソンといった代表的銘柄をみるので試すの一興だろう。
アイルランドの代名詞であるギネスの黒ビールもまた、きめ細かいクリームを想起させる。スタウト(強い)と呼ばれ、炭酸飲料というよりも、苦味・コクの深い黒クリームを飲んでいるという感じ。
ブラジルのビールのようにキンキンに冷えてサービスされるわけでもない。これならお腹も膨れず、冬の寒さの最中でもドンドン飲めること受けあい。一時間かけて一杯とじっくり向き合える稀有なビールだ。
で、サンパウロ市にあるアイルランドパブ「フィネガンズ」へ、ギネス片手に冬気分を満喫した。「全面禁煙」で話題の国だ。その余波を心配したが、杞憂だった。心安らかに紫煙をくゆらす。 折りしも「ブルームズ・デー」。訪ねたときは、ジェイムズ・ジェイス「ユリシーズ」の朗読会の最中。西洋古典的な教養が読解には不可欠とされ、「誰も理解できない最高傑作」の異名を取る作品だ。
舞台は一九〇四年のダブリン。六月十六日午前八時からの約十八時間に十八の挿話が展開される。主人公をブルームといい、その日を「ブルームズ・デー」として祝う慣わしが世界各地で浸透している。今年は百年の節目でもあった。
韓国、ギリシャ、ハンガリーなど十ヵ国以上の言葉で輪され読まれるあたり、移民の国らしい試み。店内は老若男女、インテリ風情の諸氏でにぎわい、みんな整然と座し、テキストの朗読に浸っている。母国語でない言葉で語られる、「理解できない」内容にもフンフン。まっ、これもブラジル人の「顔」の一つなのですナ、と思うことにした。
ビールはパイント単位で注文する。一パイントで五六八ミリリットルになる。三パイントほどギネスを飲んだところで、グラスが二重に見え始めたが赤いビールで有名なオールド・スッペクルド・ヘンに移る。ギネス同様、クセはあっても飲みやすい。紅茶のような風味も特徴。グイグイと杯を空けた。
地理上、魚介類は豊富。魚ではサーモンのほか、タラがよく採れる。パブでの肴といえば魚のフライとポテトフライの組み合わせフィッシュ・アンド・チップスだが、そのフライはタラであることが多い。ポテトは皮付き、ざっくりと大ぶりに切られ、その野趣に食欲をそそられる。
貝ではカキやムール貝が名物だ。店ではアイルランド風と称し白ワイン、ニンニクそしてクリームなどで味付けていた。香草焼、マリネにしてもおいしいところだろう。と、酒菜二、三品をたいらげ、いよいよ真打ち登場。アイリッシュ・シチューである。
羊肉とタマネギ、それと丸のままと薄切りのジャガイモに塩、コショウ、タイムを振り込んで、水から弱火で時間をかけて煮込むだけという素朴な料理。だが、ギネスやオールドのクリーム感が料理の深みを引く出してくれる。
クリームシチューにギネスというのは何となく合わない気がするが、この簡素といえば簡素なシチューにはピッタリ。ともすると、きつめに感じる塩味をやわらかく芳醇に仕上げる。ギネス系のビールで煮込んだ肉料理がアイルランドに多々あるのには納得。
ブラジルで故郷日本の冬をしのびて食べるアイルランド料理に感じる幸福感、わたしの故郷は一体どこ?
「ユリシーズ」に出てくる次の一節で絞め括ろう。
「故郷を甘美に思うのは未熟な初心者だ。どの土地も自分の故郷と感じるものは、すでに強さを備えたものだ。しかし、全世界を異郷を感じるものこそ、完璧である」
中世のスコラ哲学者の言葉だという。