6月5日(土)
様々な議論を呼んでいる百周年記念事業「日伯総合センター」。その元になったのはJICAサンパウロ支所の在外プロジェクト形成調査「二十年後の日系社会と日系人との連携事業について」(二〇〇三年三月、サンパウロ支所)だった。つまり、同構想の生みの親ともいえそうなJICAサンパウロ支所の小松雹玄支所長。いわば、子どもに一人立ちはさせたが、異論が噴出する中で、つまずいてしまったような現在の状況。十二日に首都ブラジリアに転任することになった機会に、百周年に関する思いを聞いてみた。
JICAブラジル事務所(ブラジリア)の松谷広志所長(五七)が帰国の挨拶に、同サンパウロ支所の小松雹玄支所長(五七)がブラジル事務所長へ転任の挨拶に、三日来社した。
六月十二日からブラジル事務所長となる小松サンパウロ支所長は、ブラジル勤務四回目、通算約十三年となるJICA内でも指折りの事情通だ。妻も準二世で、子ども二人ともUSPで、退職した後はブラジルでの老後も考えているそう。
今回、〇一年五月に赴任した時、「以前赴任していた時に比べ、今回は日系社会がコロッと変り、求心力がなくなっていた。非常に驚き、これじゃどうするんだろうという気持ちがあった。百周年が目前に迫っているという問題意識をどう盛上げるかを考え、色々なところで講演や議論をしてきた三年間だった」と振り返る。
同支所は、昨年一月から三月にかけて「二十年後の日系社会と日系人との連携事業」を立上げ、二、三世有識者を集めた調査委員会を組織した。委員長は続正剛元保健大臣、副委員長は上原幸啓文協会長だった。三月付けで制作した報告書に提案されたのが、「日伯情報管理・統合・連携センター(日伯総合センター)」だった。
この構想が昨年十二月、JICAに関係の深い日系研究者協会内に作られた日伯総合センター委員会(上原幸啓会長・当時)によって、ブラジル日本移民百周年祭典協会(上原幸啓理事長)に提案された。
その過程で、昨年九月に上原文協会長が訪日した折、日本側関連団体にこの構想が紹介され、まったく事情を知らされていなかったコロニア側関係者は「先走りか」と首を傾げた。
そして、今年四月の百周年祭典協会臨時総会で、最優先プランとして同案が可決されたのは記憶に新しい。これまでの経緯、巨額な事業費の現実性や調達方法、議論なき採決、根回しの不在など、いろいろな議論を呼んでいる。
「みなさんにJICAのプランと言われて困るんです」と肩をすくめる小松支所長。いわば親心のつもりで始めさせたものが、祭典協会に任せて一人歩きを始めた途端、つまずいてしまった格好だ。半額の負担を求められている日本側では、池田維前大使をはじめ巨額な「箱モノ」プランには慎重論を求める声が噴出している。
松谷所長は「昔は橘さんとか、一世と二世たち、日本とブラジル両側に通じた人物がいてまとめてくれたが…」と残念がる。
小松支所長は「箱モノを含め祭典や調査など、百周年にかかると見積もられている約一億ドルをどうするのか、早く提示してほしい。今は限られた人数での議論になっている。細かい点が決まっていなくても、大まかな祭典までのスケジュール、大枠の考え方を提示するようなパンフレットでも作って早く配り、日本やコロニアでの理解を求めないと」と注文をつける。
「いきなり日本にお金の話しをしても難しい。まずは、いかにブラジル側で一枚岩の体制を作れるかが問題」と現在の硬直状況を分析する。「箱モノだけでなく、祭典やスポーツイベントなど、百周年の全体像を提示していくことが必要だ」。
松谷所長は「ブラジルは九九%が非日系人であり、百周年は日伯両国の祭典なのだから、ブラジル人を入れた組織、枠組みを作り直し、定款を改正することも考える必要があるのでは」と抜本的な提言した。
ブラジリアに赴く小松支所長は、「これからは側面的な協力ができるのではと思っています」と今後のスタンスを語った。
これまでのあり方が正しい先導であったのかどうか。百周年祭典協会の今後の展開いかんでは、波紋を呼ぶ可能性を秘めているようだ。