4月28日(水)
「日本語の話せない子供が増えて、困っています」
六〇年代末になると、教職員の間で、そんな会話がちょくちょく交わされるようになる。学習者の主流が三世に移行。家庭内で日本語を使わなくなってきたということの表れだった。
当時、幼少年向けの会話指導書はなく、現場は対応に苦慮していた。懸念が高まる中、国立教育会館が受け入れ先となって、訪日研修がスタートした。一九七一年のことだ。
大志万準治氏らが旧文部省の派遣で来伯。鈴木正威旧ブラジル日本語普及会事務局長(当時)らが「日本語教育の本場で教師たちを学ばせたい」と要請して実現した。
第一回研修員は柳森優旧日本語普及センター理事長を団長とする十四人。
高橋都美子さん(帰伯二世、アクリマソン学園長)は「交通費は自己負担だった。教師は薄給で教壇に立っていたので、訪日するというのは大変なことだった。だから、みんなそれなりの意識を持って取り組んだはず」と力を込める。
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自身を含めて、多くは会話の教科書をみることに期待が膨らんだ。だが、OHPなど最新鋭の機材に触れることはあっても、目的の品に出会うことは無かった。本国でさえ、まだ目が向けられていない分野だったからだ。
「手探りでもいいから、原稿を書きましょう」
研修員OBは帰国後、月に一回集まって、勉強会を開いた。教材開発の機運が高まり、ブラジル小学校入学(五~六歳)と中学校入学(十歳前後)のレベルを念頭に、話はどんどん進んだ。
『にっぽんご かいわ Infantil』(全四巻)は角美恵子さんら五人、『にっぽんご かいわ JUVENIL』(全六巻)は高橋さんら五人がそれぞれ編集に当たった。
謄写版ずりの原稿が出来上がったのは、それから数年のちのこと。日本語普及会は一九七八年に日伯文化普及会に吸収され、今の日伯文化連盟(=アリアンサ)になっていた。
専門家に助言を仰ぐため、高橋さんが日本に派遣されることになった。原稿がトランクの半分の量を占めたという。「初めてつくったものだから、自信があまり持てなかった」。
大志万国士舘大学教授をはじめ、加藤彰彦実践女子短期大学教授(当時)、天沼寧氏(大妻女子大学国文研究室<当時>)が監修に携わり文法や語彙の誤りを訂正。専門のイラストレーターが挿絵を書いてくれた。
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四色刷りで千冊ずつ発行するつもりで見積もりをとってみたところ、予想をはるかに越える額に達し、難題を抱えることになった。
花田ルイス日文連事務局長(当時)が印刷会社と交渉、予算を抑えることに成功。さらに、日本万国博覧会協会から補助金を得た。待望の教材は八〇年に、世に送り出された。
Infantilは「絵本のようで、幼い子でもとっつきやすい」。JUVENILは「一部、対訳がつき、使いやすい」と評判はまずまず。高橋さんは「多くの方に喜ばれましたよ」と目じりが下がる。
訪日研修から九年。関係者の努力はようやく、実った。つづく。 (古杉征己記者)