教科書 時代を映して変遷(9)=保護者の矛盾した意識=日本語教育は必要=教師月謝は上げぬ
4月27日(火)
第二期教科書刊行委員会(宮坂国人委員長)は六四年六月に、高学年用四巻の編集作業を終えた。移民五十年祭(一九五八)で日系社会が一体化。その余韻がまだ残っている頃で、日系人からの寄付も相当な額に上ったという。
日本政府から補助金の交付を取りつけたことは、戦後の日本語教育界では画期的なことだった。鈴木正威事務局長(当時)は「出版費の三分の二はコロニアの浄財で賄いました」と日系人の共同体意識が強かった時代を懐かしむ。
刊行事業を終えた同委員会は解散。それを母体にして、六四年八月に旧日本語普及会が設立された。教科書の普及や日本語教育に関わる調査などを事業内容に盛り込み、「日本語教育を統括する機関」を目指した。鈴木さんは同普及会事務局長に就いた。
教科書刊行委員会時代に『日系ブラジル人に対する日語教育実情調査』、『日本語学習者子弟をもつ父兄に対する意識調査』(いずれも六三年度)を実施。日本語普及会になって、結果をまとめて発表した。
「戦後の大事業のひとつ」だと森脇礼之だるま塾日本語校々主は『人文研レポート№4』(一九九九)で評価している。
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血は水よりも濃し──。
日本語普及会の広報や保護者の啓蒙などのため、鈴木事務局長は積極的に地方にも足を運んだ。親子間のコミュニケーションを取るために日本語を学ばせるという父兄が目立ったよう。
六〇年代半ばのこの時期、親は戦前生まれの世代。「教育勅語をやって何が悪い」、「日本語をやらせるのは毛唐に嫁にいかせないためだ」と熱い思いをぶつけてくる人もいた。「つるし上げられたこともある」そう。
前記調査によると、父兄が日本語を習わせる動機について、「親子理解」が二四・六%でトップ。「日本のすぐれた思想や文化を子孫に残したい」が二二・七%、「日本精神(忠君愛国など)を教えたい」が一三・七%と続き、鈴木事務局長の体験談を裏付ける。
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一方、日本語教師の月収は二十コントス以下が五七・五%に上り、驚くべき薄給で生活していることが明らかになった。当時(六三年)のサンパウロ州の最低賃金(二十一コントス)を下回っている層が半数以上を占めた。
月謝額(全伯平均)がわずか、三百八十九クルゼイロス(約八十円)。教師は生活を維持させるために副業に従事、質の低下を招くことになった。
日本語教育は必要、でも月謝の値上げには反対―。そんな矛盾した意識が保護者にあったと、調査結果には、低収入の背景について記述がみられる。
父兄に理解を求めるため、日本語普及会は各地で懇談会を開いた。日本語学校の中には、会館の裏の方で、暗くてじめじめした場所にあったものも。鈴木事務局長は親たちの態度をみて、思った。
「月謝を上げて欲しいと言ったって、聞く耳を持たない。経済的なゆとりがあっても同じ。だから、日本人が教育熱心というのは神話じゃないか」
つづく。 (古杉征己記者)
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