3月24日(水)
ブラジルを訪れる日本人の若者はあとをたたない―。これまで、国際協力機構(JICA)の日系青年ボランティア制度は累計七百六十八人(〇二年度、第十八期)。日本ブラジル交流協会の留学・研修制度は累計六百六十九人(〇三年度、第二十三期まで)を派遣した。大学間の交換留学を利用するもの、自費での留学もかなりの数になるだろう。なぜブラジルに来たのか、それが将来とどう関わるのか、ブラジルで何を見たのか。将来の職業を決めかねる若者が多い中で教師、サッカー監督、研究者、柔術家、お坊さんなどと志を固めているひとがいる。八人の二十代に話を聞いた。
昨年、サント・アンドレ・フットボールクラブはセリエC(準優勝)からセリエBに昇格。昨年一月のサンパウロ杯では、同チームのジュニオール(二十歳以下)が優勝を果たすなど、正に快進撃の一年だった。今年一月二十日まで、同クラブでコーチの勉強を続けた井田勝太郎(二四、静岡県出身)は、これを目の当たりにした幸福な日本人だ。サッカーの名門、静岡学園(静岡県)でプロの監督を勤める父、勝通(まさみち)の勧めもあって、〇二年十一月からブラジルでコーチ修行中。目標を聞く記者に「最終的には日本のプロでやってみたい」と井田は言い切った。
静岡学園は、過去八回全国高校サッカー選手権大会に出場。うち、平成七年に優勝、八年に三位など輝かしい実績を持つ名門だ。勝通は、日本で初めての高校サッカーのプロ監督として活躍するパイオニア。また、個人技を重要視するブラジルスタイルのサッカーを好むことでも知られる。
井田は「中学三年くらいから、監督を意識し始めていた」とふりかえる。選手としての実績に目だったものは無いが、サッカー監督が身近にある家庭環境が井田の将来を決めた。ブラジル行きを決めたのも、大学三年時に父のアドバイスがあったことが大きい。
サント・アンドレでの勉強は、ジュニオールの監督に常に付いていくことだ。午前の部(九時から十一時)、午後の部(十四時から十六時半)の練習に参加し、監督の側でメモを取った。基本技術はジュニオールでは前提条件、自然、戦術中心の練習が組まれている。ブラジルの戦術を学ぶ井田にはいい環境だった。
コーチの勉強には「現場にいることが重要」と考える井田は、監督の個性に目を見張った事が度々。サンパウロ杯での優勝監督を「エキセントリックなところもあったが指導は学ぶ所が多かった」と評する。
彼を含めて三人の監督と出会った。フロントの意向に左右される監督の姿も垣間見た。〇三年三月に優勝監督がトップチームに昇格。後任の監督はその年の十月に解雇された。選手起用で、プレジデンテに反発したためだ。
「例えば、前日に四バックから三バックへ変更しても、ある程度すぐに対応出来る」。ブラジルで最も驚いたのは選手の戦術理解力。しかし、「最終的に個人で試合を決めてしまう」のがブラジルのサッカー。ボールコントロール能力の高さがそれを可能にする。
意外にも、ブラジルサッカーは十八歳まで基礎練習を怠らない。「ボールコントロールが基本で、フィジカル、戦術はその後」が古くからのブラジルの指導法。勝利至上主義の傾向が強い日本で早い段階から、フィジカル、戦術を重視する考え方には批判的だ。
一月二十日のサンパウロ杯終了後、新たなチームでの研修を模索している。挙がる名前は、サンパウロ、パルメイラスなどいわゆるビッグ・チームだ。十一月に帰国後、いよいよコーチ生活をスタートさせる。(敬称略)
(佐伯祐二記者)
■日本の若者ブラジルで将来を模索(2)=市原裕子さん(23)=デカセギ帰国子弟と交流=国際学級で指導したい