1月22日(木)
サンパウロ市(サンパウロ市)は過去に、革命の舞台になった。一九三二年の「護憲革命」と、「六四年革命」と呼ばれた軍事政権反対運動である。今回のフォーリャ紙特別企画「わたしはあの時あの場所にいた―サンパウロ市制四百五十周年記念特集」では、実際に当時の革命・運動に参加した人々をインタビューした。
[三二年、護憲革命]
年金生活者のジョゼ・S・ペイショットさん(九四)は、護憲革命で革命兵士として活躍した。当時、彼は、故ジェトゥーリオ・ヴァルガス元大統領の政治方針に反発し、兵士の一人になった。「自分の人生の中で自分が行なった最大の善行為が護憲革命兵士として戦ったことだ」と、誇らしげに語る。
護憲革命は初め、ヴァルガス政権の公約の一つである「新憲法の制定」を促す運動だった。しかし、民主主義派のはずのヴァルガス元大統領による独裁的な政治が続くにつれ、同政権への不満が爆発し、サンパウロ州の志願兵約十一万人が参加する大規模な革命運動となった。革命軍は政府軍に武力で鎮圧されたが、二年後の三四年、ヴァルガス政権にブラジル共和制における第二番目の新憲法を制定させることに成功した。
三二年一月二十五日、革命が勃発する前に、セー広場で大規模なデモが行われた。人々は「独裁反対」「民主主義を取り戻せ」と書かれた看板を掲げ、新憲法制定を訴えた。「民主主義を訴えるサンパウロ側につかない者は独裁支持派だとみなされた。中立的な立場は認められなかった。でも、反対するものなどいなかった」と、ペイショットさんは追憶する。
同年五月二十三日、レプーブリカ広場で四人の学生が警察との衝突時に殺害された。後、護憲革命は、彼らのイニシャルを取って「MMDC革命」とも呼ばれるようになった。
そして七月九日、とうとう武力を用いて政府に訴える革命が勃発した。メルカドンで知られるサンパウロ市市営市場は、革命兵士たちの臨時兵舎として使われた。「戦場の前線がどこであれ、人々は我々に食糧などを寄付してくれた。皆、民主主義者である我々に味方していたのです」。
[六四年革命]
一九六四年三月十九日午後二時ごろ、「自由を求める家族の行進」と呼ばれる大規模なデモ行進があった。当時、ブラジルではジョアン・Goulart軍事政権が台頭。それに反対するマリア・P・C・シウヴァさん(七二)は、女性公民連合を結成し、軍事政権反対デモを引き起こしていた。
デモ行進参加者らはレプーブリカ広場に集合。そこからセー広場へ向かった。その途中、多くの人々が合流し、当時のサンパウロ市人口の約一〇%に相当する五十万人が行進した。
「あんなに人が集まるとは。運動を企画した我々にとって、こんなに嬉しいことはなかった」と、マリアさんは笑みを浮かべる。「民主的な大統領選挙はすぐには始まらなかったけれど、市民の意思を反映した運動だったことは確か。『大統領を牢屋に入れろ』とみんなで叫びながらの行進はとても素晴らしかった。今でも誇りに思っています」。
(フォーリャ・デ・サンパウロ紙十一月四日、十二月二十三日、一月二十日)