1月21日(水)
【フォーリャ・デ・サンパウロ紙十二月二日】TAM旅客機墜落事故―。一九九六年十月に発生し、九十九人の死亡者を出したこの事故は、まだ記憶に新しい。当時、墜落寸前の飛行機を間近に見た女性がいた。ジョゼリッタ・M・S・ブリットさん(四三)。今回のフォーリャ紙特別企画「わたしはあの時あの場所にいた―サンパウロ市制450周年記念特集」では、ブリットさんに当時の事故現場の様子を語ってもらう。
ブリットさんは、コンゴーニャス空港に近いサンパウロ市ジャバクアーラ区の小さなスーパーマーケットでレジ係を務めていた。同年十月三十一日(木)午前八時二十八分、客は一人だけだった。彼女が聖書を読んでいると、飛行機の轟音が聞こえてきた。「空港に近いので、離陸・着陸時の音に慣れていた。あの音もそうだと思っていた」。だが、予想は外れていた。
轟音は益々激しくなり、不思議に思ったブリットさんがドアの方を見ると、大きな飛行機が真っ直ぐ、店に向かって飛んでくるではないか。飛行機はTAM航空の旅客機「フォッカー100」だった。
「もうこれで終わりだと思った。もし、飛行機の尾翼が手前の二つのビルに当たっていなかったら、確実にスーパーに突っ込んでいただろう」と顔をひきつらせる。
乗客九十人と搭乗員六人を乗せた402便のTAM機は、ビルだけでなく、同区の住宅八軒や車両十四台も破壊した。飛行機が墜落したわずか二十メートル先には、八百人の子供たちの通う学校があった。
「恐ろしい轟音のせいで、片方の耳は一年ほどよく聞こえなかった。常に雑音が聞こえていた」と、ブリットさんは語る。
ブリットさんと店長は、店の奥に隠れた。店前に燃料の雨が降り、火の海となった。
店が倒壊するのを恐れたブリットさんは、聖書をしっかりとわきの下にかかえ、火が少しだけ弱まった時に一気に外へ駆け出した。「外はまるで空襲を受けたようだった。煙が立ち込め、燃料の燃える強い臭いがした。飛行機や家屋の破片が一面に散らばっていた」。
ブリットさんは両親の家へ向かった。「わたしが死亡したというニュースがすでに報道されていた。母は泣き止まず、父は病院へ運ばれた。その一カ月後、父は心臓病で亡くなった」。
402便はサンパウロ市からリオデジャネイロ市へ向かうはずだった。だが離陸直後、エンジン関係機器の故障で加速せず、コンゴーニャス空港の滑走路近辺に墜落した。旅客機内にいた人々は全員死亡。ブリットさんの隣人も三人死亡した。「うちのお店のお得意さんだった」。
一年間、睡眠薬を飲まなければ眠れなかった。「飛行機がそれずにうちの店に突っ込む悪夢を見て、叫びながら起きていた」。同区にいることが恐ろしくなったブリットさんは、他区へ引っ越した。「今でもあの聖書を開いたままにしている」。