2003年1月1日(水)
サンパウロ市のブラジル銀行文化センター(アウヴァレス・ペンチアード街112)では十二日まで、「ファデウ・コレクションで見るブラジル美術」展が開かれている。今展は、この国の作家たちがどのようにして西欧の近代美術を消化し、後に「ブラジル」らしさを獲得していくか、その流れを一気に探れる絶好の機会となった。日系作家の存在も気になるところだ。
☆スター誕生
キュレイターのパウロ・エルケンホッフは「近代とバロック」や、「具象から抽象へ」など八つのブロックを設け、それぞれ指標となるテーマに沿った作品(総数百五十点余り)を振り分けたが、日系作家はどこに登場しているか。「建設的な意思と不定形主義」のコーナーで出会える。時代は五〇年代から六〇年代である。
国際美術の祭典サンパウロ・ビエンナーレが五一年に始まり、海外作家の作品が続々と流入、これを目の当たりにしたブラジルの作家の葛藤が最も激しかった時期と言ってよい。しかし、ブラジル現代アートは西欧の前衛芸術をフォローしながらも、新たな芽生えを見せ始める。
「ヨーロッパはもはや手本でなく、対話の対象となっていた」とエルケンホッフ。
まずはサンパウロで、後にリオにも飛び火したコンクレチズム(具体美術運動)に少し遅れて、「対話の対象」として入ってきたのがアンフォルマリズム(不定形主義)だった。日本人が一躍ブラジル美術界の寵児となるのは実にこのときである。
エルケンホッフは、ブラジルの「アンフォルマリズム」作家四人を選出、それぞれの作品を並べた。イベレ・カマルゴのほかは、いずれも日系作家。間部学、大竹富江、フラビオ・シロー(田中駟郎)だ。どうして彼ら日本人がここで強い存在感を放っているのか。
☆ブラジルの観客が「見たい」絵画
そもそも、アンフォルメルとフランス語で示される場合が多い、この芸術運動は終戦後のヨーロッパに端緒を発する。”非職業的”画家たちの激しい感情表現が始まりで、これをフランス人批評家ミッシェル・タピエが反具象絵画運動として、「不定形の」を意味する単語を用いて、言及した。
一方、ニューヨークでは戦後、「抽象表現主義」の絵画運動が勃発。絵具のタッチやボリューム感で、あるいは茫洋とした色彩の広がりで、見るものを圧倒し、包み込んでいくというスタイルが形成されている。
間部らがパリ、ニューヨークの風を受けて、制作していたのは間違いないが、それは他のブラジル人作家も同じで、これだけでは先の「どうして日本人が」という問いに対する解答にはならないだろう。
ヘルケンホフは指摘する、「彼らの作品には書道の技法や禅の精神が充満している」と。
前衛書道のような筆運び、
何も描かれない静謐な「間」の存在―。つまりは西欧と東洋が融合した「アンフォルマリズム」と見た。そこにこそ三人の独自性があり、ブラジルのアートシーンに新たな一ページをもたらした、と断言する。
また、今展には飾られていないが、福島近の抽象作品に、「桃山時代の障壁画からの影響」がたびたび指摘されているのは覚えておいてもいい。
六十年代のブラジルといえば、未来の新首都ブラジリアである。国民は何につけ、次の新しい何かを待望していた。そのサンシング・ニューがオリエンタリズムであり、絵画ではどことなく日本の美学が漂う抽象画だったとしても不思議ではない。
もっとも、別の見方をすれば、彼ら日本人作家は、ブラジル人が「見たい」と願う「日本」を表現する身振りを発見したのだ、とも言える。
後年、一筆書きしたような「円」―禅のシンボル―を作品に取り入れた日系作家が一人ならず見られたのもこうした身振りの一つであろう。
☆第四回サンパウロ・ビエンナーレがなかったら
「ビエンナーレがブラジルになかったら、間部や福島らは生まれていなかった、つまり、抽象へと作風を変えていなかったかもしれない」
そんな声を聞くことがある。ビエンナーレの創始以降、著しい作風の変化が認められるからだ。とりわけ、五七年のビエンナーレがブラジルの日本人作家に及ぼしたインパクトが大きいように思える。
日本はこの年、パリで「アンフォルメル」運動に参加していた今井俊満、メゾチント版画の浜口陽三、そして、書や禅思想に着想を得る津高和一、須田剋太といった作家を代表として送り込んでいる。
リンスからサンパウロに定住したばかりだった間部は津高をよく世話したというが、これが真実であれば、五八年以降、その画風をがらりと変えたのも納得いく。
実際、五七年までの間部の作品は安定していない。ネオ・キュビズムであったり、ブラジルを代表する巨匠カンジード・ポルチナーリ(二十五日まで、ネルソン・ウングリア通り200のPINAKOTHEKEで回顧展が開催中)への傾倒がうかがえたりする。
だが、具象の兜を脱いだ間部は次の第五回ビエンナーレ(一九五九)で、カリグラフィックな作品が評価され、見事絵画賞を受賞する=絵画①参照。
間部そしてこれに続く形で、あっという間にブラジル画壇のトップに上り詰めた福島。二人が属した、日本人作家グループ「聖美会」メンバーの反応が気になるところだが―。古参会員の一人はこう漏らしていたと言う。
「二人はいずれ泣いて帰ってくる」
また、ある者は「外国人の世界に出て行っても、しょせんは刺身のツマだ」とはき捨てたとか。
☆「近代」の到来と、日本人作家のデビュー
「聖美会」が結成されたのは三五年に遡る。三、四〇年代のブラジルは労働社会階級の芸術家グループが方々で産声を上げていたが、その中でも草分け的な存在だった。
前後して、アウフレッド・ヴォウピらイタリア系を中心とする「グルッポ・サンタエレーナ」が立ち上がり、セー広場にアトリエを設置。この二つのグループが双璧と言えた。
いずれのメンバーもたいがいは決して裕福ではない移民の親を持つ点、絵では食べられないことから、その技術が生かせる工芸的な職業に就き、糊口をしのいでいたところなどが、共通する。
また、二〇年代の西欧美術の前衛的な動き―キュビズムや、ダダ、未来派など―に対し関心を示した兆候は両者ともに見受けられない。その手本はもっぱら後期印象派、表現主義、野獣派などで、作風はこれに、熱帯特有のリリシズムを加味したものだったと見ていい=絵画②参照。
「聖美会」以前の日本人作家の活動を振り返ってみると、最初に日系社会外での美術展に参加したのは富岡清治とされる。来伯は二二年。日本で水彩画を自学、美術雑誌「みずえ」の編集者らとの交流もあった富岡は二六年までサンパウロ美術制作学校で学び、二八年には先のヴォウピに誘われて、ジュベントス連盟の第一回共同展に出品している。
「二二年」、「二八年」という年号はブラジル近代美術にとって忘れることの出来ない年である。富岡の経歴と符号が一致したので記しておくと、二二年はブラジル独立百周年に当り、サンパウロで「近代美術週間」が開かれた年に当たる。これは新古典主義アカデミズムを批判し、文化ナショナリズムを表明した広域の美術文化運動だった。
ここで主要メンバーだったのが作家オズワルド・デ・アンドラーデと、画家タルシーラ・ド・アマラウで、二人は後に結婚。タルシーラは二八年に夫への贈り物として一つの作品を制作する。
それが将来、ブラジル絵画史上、最高値で取り引きされることになる「アバポル」だった(アルゼンチンのコレクターが九五年、クリスティーズ・オークションで、百三十万ドルで落札。三月二日までアラゴアス街903のFAAP美術館で鑑賞出来る)。
「アバポル」は、食べる男を意味する。アンドラーデは同年、有名な「アントロポファギア(人肉食い)」宣言を発表。ブラジルは近代主義の過程で、形成期文化の中に、自らの価値を構築するため、「他」の価値を摂取する習慣を育んできた、との考えを表明した。
これは現在に至るまで一般に行われている、この国の文化習慣モデルとされ、ブラジル美術と欧米美術の連関性、相違点などを探る上でも興味深い視点なだけに、第二十四回サンパウロ・ビエンナーレ(一九九八)のテーマとして復活。その理念が援用されている。
一方、富岡が二八年に描いた絵も半世紀以上が過ぎ去った八三年、サンパウロ州立絵画館で行われた「日系ブラジル人―師匠と生徒の五十年」展で飾られ、カタログの表紙にまで選ばれた。題は「ペドレイラ」で、クレーン車で崖を削る風景を水彩で描いた小品である。
サンパウロ大学のマリア・セシリア・フランサ・ロウレンソ教授が指摘するように、日系作家の興味の対象は一般に、工場、廃屋、名もないバー、輝きのない映画館など、「町の忘れられた、衰退した地点」にあったようだ。
教授はそのわけを、「洗練されたものでは人間の本質を表現するためには貧困と考えていたのでは」と推測する。富岡の「ペドレイラ」(一九二八)にして、その傾向は現れていよう。
☆人間より自然。日本人の素養
さらに特徴があるとすれば、イタリア移民の画家と対比することで浮かび上がってくる。前者が人間(聖人も含む)とそのドラマを積極的に描こうとしたのに対し、日本人である彼らの絵には人間のいない風景が目立つ。
イタリア美術は人体表現が基本、価値観の根底に「人間は万物の尺度」とする態度がある。日本人は花鳥風月の中で美意識を育んできた。画題に自然が占める割合が大きくなるのも納得させられる。
ところで、ブラジル近代美術史の中で、日本人作家ほど系統的にまとまって、その動向を把握できる存在はない。何年か置きに、日本人作家たちの作品を集めた特別展が開催されるのが、いい証拠だ。
では、どうして、グループが結成されるほど多くの日本人画家がいたのだろう。
三〇年代から、画家組合、グループ展制度の設立など、一気に芸術の大衆化が進み、社会が絵描き受け入れる環境が整い始めていた事情がまず、ある。この上で、日本人が持つ素養が生きた。
画家でもあった鈴木悌一が残すこんなエピソードが示唆的だ。
「海岸で絵を描いていたらブラジル人が寄ってきて、〝ボニート、幾らで売る?〟と聞かれた。次に日本人の子供たちが来た。彼らはこう言った。〝おじさん、この部分はこの色でないほうがいいね〟と」
移民の子でも初等教育を日本で受けた者ならば、図画、書道に親しみがある。鈴木の話は日本移民が他国の移民よりも比較的、美術の素養に秀でていたことを言い当てている。
貧しくとも、筆を取ることに対して抵抗のない彼らが農作業の合間に、絵を描き出すのはごく自然なことだったか。
日本人=絵が上手、というイメージは案外一般にも広まっていたようだ。小説家オリジエネス・レッサが戦前、日本人移民の似顔絵描きをテーマに「ショウノスケ」という掌編を残し、人気を博している。
☆巴里、リオ
一枚のよく知られた絵がある。イズマエル・ネリィによる水彩画。描写はこんな風だ。
あの藤田嗣治がモレーナと会話している。右手には、かのポルチナーリが藤田夫人と。画面奥の壁に、いずれも裸婦が描かれた作品が掛かっているのが分かる。
三一年、藤田はリオのパラセ・ホテルで個展を開く。ポルチナーリとはブラジルに滞在中、親密な交際を続け、画布の加工の仕方や、日本独特の筆で引かれる繊細な線についてなど、幾つかの教示を与えたとされる。ポルチナーリが同時期描いた肖像画にその”成果”が認められると言う。
束の間の邂逅、二十世紀の日本とブラジルを代表する画家同士は何を語り合ったのか。興味は尽きないが、両人とも天国のいまは知る由もない。
この際、藤田はブラジルのコーヒー王アウヴァロ・アウヴァレス・アスムソンから、銀座四丁目にあったブラジル珈琲ショールームのための壁画の依頼を受けるなど、社交界から熱狂で迎えられ、彼らの肖像画など多くの作品を残してこの地を後にする。
しかし後に、フランスの画商が”駄作”の一部を買戻し処分するため、来伯したとも伝え聞く。
さておき、フジタ旋風から十年後の四一年。また、一人の和製パリジャンがリオの港に降り立つ。上永井正だった。鞄には藤田が書いたポルチナーリへの紹介状が一通。三〇年代、南米各地を巡った藤田に「メキシコだけは見ておけ」と言われ、旅出た上永井だが、サンタテレーザの丘に額縁製作所兼アトリエを設け、イパネマには土地まで購入。滞在は伸びに伸びて結局、十四年にも渡った。
近代美術の花園だったパリに暮らし、ボナールやマチスらと親しくした上永井の作風はフォーブ(野獣派)の流れを汲み、ブラジルに「エコール・デ・パリ」の技法を持ち込んだ画家、というキャッチフレーズが付くことがしばしばとなっている=絵画③参照。瞬く間に「聖美会」のアイドルとなった上永井のもとには、戦後すぐに福島や、フラビオが相次いで弟子入りし、そのアトリエで働いた。
間部もその故郷リンスで上永井の巡回展があったときのことを後に思い出し、「確か五二年のことだった思うが。その色使いのすばらしさに、作品からしばらく離れることが出来なかった」と回想。感動の余り手伝いを申し出、個展を訪れる人々の相手をしていたとも明かしている。
☆MASP、ビエンナーレ―戦後の動き
「日本人は第二次大戦で、その出身国が同じ選択をしたイタリア人やドイツ人とは差別され、ブラジルが連合国側についた四二年以来、画家同士の集会を禁じられ、正式なサロンにも出品できなかった」(前出、ロウレンソ教授)
戦中、散会を余儀なくされた「聖美会」がその活動を再開出来たのは四七年からのことになった。
四七年といえば、パライーバ州出身のメディア王アシス・シャトーブリアンが、サンパウロ美術館(MASP)を建てた年でもある。イタリア人美術評論家ピエトロ・マリア・バルジを館長に招き、第二次大戦の戦争特需で潤ったブラジルに数々の西欧美術品を持ち込ませた。
その四年後、今度は西欧の作品を展示するだけでなく、自国の美術を「見せる」という方向にも力が注がれる。いまに続くサンパウロ・ビエンナーレの誕生である。
イタリア系財閥のチチロ・マタラッゾがヴェニスのビエンナーレに触発され、開催に乗り出した格好だが、それは欧米の逸品に触れる機会を市民に与えただけでなく、アーティストには、欧米に自分たちの美術文化を主体的に「発信する」という意識を植え付けた。
とはいえ、五〇年代のサンパウロは依然のんびりとしたもので、美術品を買い支えるに十分な市場が社会に形成されるのは実質、六〇年代に入ってからだった。
六〇年以降にこうした状況が生まれた理由としては団体展よりも、画廊や美術館が発達し、同時に、一般公募のサロンが盛んに実施しされ始めたという時代の変化があろう。
また、住居・オフィスの建築がこのころ、壁を広く取ったモダン様式へと移り変わり始めたことも、絵が売れ始めた一因に働いた。
多数の日系作家が参加した「グルッポ・グァナヴァラ」展(一九五〇―一九五九)を懐かしむ、画家アルカンジェロ・イアネーリの言葉をここで借りよう。
「五〇年代は美術評論家といっても、四人ほど、画廊は三、四軒のみだった。絵が売れ出すのは六〇年代から。仲間のうち、だれが最初に市場を築いたかって?。間部だよ。でも、ほかの何人かも、絵で生計を立てられるようになった」
☆六〇年代―戦後移民作家の台頭
九四年のことだ。ビエンナーレ財団はヴェネツィアのそれに継ぐ規模に成長したサンパウロ・ビエンナーレを回顧し、「ビエンナーレの二十世紀」展を開いた。ここに世紀のブラジル美術を飾ったアーティストとして、取り上げられた日本人は九人だった。
間部、福島、大竹、フラビオ。そして若林和男、豊田豊、近藤敏、吉留要(現在日本で活動)、楠野友繁ら、六〇年前後に来た戦後移住の作家五人が含まれた。
豊田いわく、「始めから国際的な立場を自覚し、スタートを切った」世代である。
「ただ活動の場をブラジルに移しただけ。日本でやってきたことの延長で十分に通用したし、すぐにみんなが、大きな賞を取った」とは若林だ。
日本を出たときにはまだ無名に近い存在だった彼らも、ブラジルでは早々にビエンナーレへの出品が許されるなど、広く活躍の場が約束され、その機会もブラジル国内に限らなかった。
豊田は来伯後、ル・パルクなどキネティック・アートの作家が際立ったアルゼンチンへと向かい、一年半を過ごしている。六四年から五年間は、サンパウロ美術館長バルジの世話を受け(ミラノではアトリエとして古城まで用意されたという)、イタリアで活動。隆盛を見た空間派のルーチョ・フォンターナ、エンリコ・カステラーニら、ときの現代美術界のスターと時代の風を共有する。
近藤と吉留はパリにその拠点を置いた、シュールレアリスム運動の世界的グループ「ファーゼス」のブラジル代表に六四年、ヴァルテル・ザニーニ(当時サンパウロ現代美術館長)によって推薦され、作品が欧州各地を巡回した。この運動にはフラビオ・シローも参加している=絵画④参照。
ブラジル現代美術に新時代の到来を告げたイベント「オピニオン65」(リオ近代美術館)に、フランス、ギリシアからのアーティストに混じって参加したのは楠野だった。
これをきっかけに、同年(一九六五)のパリ青年ビエンナーレに出品=絵画⑤参照。その後、カナダのオタワで個展、ワシントンでは間部と二人展を開催し、ニューヨークでの生活が始まる。
楠野にはこんな逸話もある。
来伯した年、さっそく受け入れ先の弓場農場からリオのサロン・ナショナルに応募も、落選した。リオ国立美術館まで作品を取り戻しに出掛けてみたが、「どこにもない」。そのとき、人ごみに気付く。自分の”落選作”を前にイベレ・カマルゴやアントニオ・ジアスらが感心、論議していたのだった。
楠野は振り返る。「来たばかりのとき、こっちの現代作家の絵を見てもどこか”幼稚”だと思った。五〇年代に東京で、日本の前衛作家たちの仕事を見ていたからね」
☆戦後作家の思い
当時、ブラジル現代美術の作品が「幼稚」に見えたとは―。「戦争の経験が無いせい」。楠野はそう話す。
第二次大戦が二十世紀のモダニズム芸術に与えた打撃は深い。その制作活動に戦争を背負い込むことが戦後アートの出発点であった。
冒頭の章で見た「アンフォルマリズモ」にしても、戦争が生んだ芸術だ。とするならば、そのスタイルだけを模倣した間部や大竹の作品を指し、この言葉を用いることは本質的な文脈上、不適切になる。
「戦前移民やブラジルの作家と、戦後に日本から来た作家の差異は、戦争をどのように迎えたか、に行き着く」と若林。「間部さんの絵はそのタイトルの通り、ロマンチックでリリカル。われわれに比べて、おおらかなものを失っていない」と続ける。
盟友の安井賞作家、鴨居玲がブラジルを去るときに残した言葉が若林の頭にはある。「鶏が向こうから食べてくれと来るような国で絵は描けない」
一方の間部は若林にかつて、「ぼくはこの国に十歳で来て良かったと思う、マモン、小鳥のさえずり、太陽…」と語ったと言う。
二人の意識に見る大きな隔たり―は畢竟、戦前と戦後作家の制作姿勢ひいては問題意識の違いを浮き彫りにしている。
楠野らと一緒に五〇年代、日本のアヴァンギャルド芸術運動を通過した金子謙一は、戦後作家の思いを分析し、代弁する。
「ぼくらはひねくれている。絵は売るためのものではないという意識を根底で棄て切れない。作品が東洋的な室内装飾品に位置付けられることも良しとしない。でも、戦前の作家は自分の美意識を素直に育てているように思う。戦後に間部さんのようなスター作家がいない理由の一つは、ぼくらがどうしても内面の葛藤を排除した作品を作り出すことが出来ないからだろう」
まさに「失われた世代」―。群れをなさず、様々な方向に「ひねくれ」ながら飛び続けてきた彼らはいまも、それぞれの空白を埋める色を見つけようと、真っ白な画布を前にもがく。
ブラジル現代美術にとって、戦後の日系作家とは何であったか。彼らの挑戦が終らない限り、まだその答えの構図を定めるときではないだろう。
(小林大祐記者)