その友人たちも、画家仲間や安定した生活をしているコロニアの家庭人が多く、この頃の男たちの唯一の娯楽であるマージャンのメンバーとして呼んでもらい、家庭料理もたびたび口にしたそうだ。独身であることを楽しんでいたこの時期に、私の美顔術のお客さまと同じ客だった三菱商事の駐在員夫人達から私との結婚を勧められたことで、花嫁移民を迎えた他の青年達とはまるで違うケースの独身生活をしていたといえる。
結婚をした翌年に長男が生まれ、画家は長兄が訪伯したことを機に、十三年ぶりに故郷茨城へ帰えることになった。好景気だったこの年代、故郷でたまたま描いた画が売れ、つぎつぎ注文されて売り持ち帰った金で、好きなシボレー社の車オパーラを購入したいという。私は親しくしてもらっている近所の製薬会社経営の中久保益太郎氏宅へこの頃は、まだ貰えればありがたいと思う梅干、のり、昆布をもって夫が無事帰った挨拶に行った。
「どぅや、絵描きさんはお金を持って帰ったか、え?」と京都出身の中久保さんが聞く、
「はい。持って帰ったお金で明日オパーラを買いに行く言うてます、車なんか私はいらんと思うけど」と私も大阪に住んでいたから関西弁になる。
「そうか、お金は使い方が肝心や、絵描きさんにおじさんが日本の話を聞かせて欲しい言うてるからと連れて来てんか」と言う。
翌日、夫は一目おかなくてはならない成功者の中久保さんに、
「子供が学校に入るまで家を持たないことには、この国の生活はキツイ」と説かれ、あくる日から中久保さんの車に乗り土地探しを始めた。やがて市内から十七キロ離れた町の埋め立て地が安く、しかも持ち主がブラジル人の資産家で画家でもあったため、調子よく話がまとまり現在の土地を購入し、直ぐに家の建築工事を始めることになった。
しかし、二百数十万円の資金ではまるきり足らず、レンガを積み上げるだけで、家のドアは玄関と勝手口のみ、各部屋にはつけられない計画になっていた。
家の工事中に第一回目のオイルショックがあった。それは一九七〇年代の石油依存型経済を揺るがし、三年後の一九七三年一〇月には第四次中東戦争が勃発した。OPECが戦争中の原油生産削減を宣言し、同時に原油価格の七〇%の引き上げを通告した。さらにアラブ産油国は、イスラエル支援国であるアメリカやオランダに対する石油禁輸措置を次々に発表した。停戦後に生産削減と禁輸措置は緩和されるが、原油価格はさらに引き上げられ、三ケ月ほどで、その価格は三ドルから十一・六五㌦に急騰した。このオイルショックがブラジルにも大きく影響し、原油が上がる度に物価が上昇し、インフレはますます激しくなるばかりだった。
夫は日本とブラジル両国で度々個展を開き、建築中の家に、そこから得た金を注ぎこんだ。画家のある奥さんに、
「家を建てるんやから、うちらとは違うわ」と皮肉をたびたび言われたが、しかし彼女は子供連れで訪日を楽しんでいたのであり、私は訪日よりも家を持つことを選んだまでのことである。私が初めて訪日したのは、日本を出て二十三年経ってからで、ドルが八十七円になったそれまでになかった円高の時である。
建築を請け負ったのは、夫のマージャン友達の一人であった。その建築技師は、建築界では世界的に有名なジョアキン・ゲーデスに勤務しており、ジョアッキンに影響されたガラスの多い設計だった。