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メキシコ榎本殖民団=照井亮次郎の生涯=殖民地崩壊の実際とは=JICA前支所長が著作発表

12月2日(火)

 JICAサンパウロの前支所長、川路賢一郎さん(現大阪国際センター所長)が今年三月に、メキシコ移民の嚆矢である榎本殖民団に参加した、岩手県花巻出身の照井亮次郎(一八七四―一九三〇)の気骨溢れる生涯をつづったノンフィクション『シエラマドレの熱風(かぜ)―日・墨の虹を架けた照井亮次郎の生涯』(パコスジャパン)を上梓した。当時同国最大の日本人企業「日墨協働会社」を設立、メキシコ革命という歴史の荒波に翻弄されながらも、独自の楽土を築こうと奔走した照井。有名な榎本植民地崩壊の原因についての記述も詳しく、ブラジル移民にとっても人ごととは思えない移住史の一幕を描き出している。

 川路さんは一九七五年に日墨交換留学中に、メキシコ大学院大学の図書館で、照井の資料に出会い、その生き様に感激して追跡調査を始めた。以来、メキシコや生地の岩手に何度も足を運び、地道に調べ上げた綿密なデータに基づき、異国に楽土を築こうとした明治男の逞しい生涯を探求してきた。
 照井は、明治時代の外務大臣、榎本武揚の殖民思想に共鳴し、一八九七年に榎本殖民団に参加し、日墨交流の第一歩を刻んだ。榎本は元々、徳川幕府海軍副総裁であり、明治新政府にとっては〃賊徒〃であった。函館五稜郭で壮烈な海戦に敗れて獄中生活を経た後、新政府高官として活躍する、波瀾に満ちた人生を送った人物だ。
 一八九七年五月十日、榎本殖民団一行は、メキシコの地に歴史的な一歩を印した。監督者一人、照井ら自由渡航者六人、契約移民が二十八人だった。
 同殖民地は、同国南部チャパス州のシエラマドレ山脈内に六万三九二六町歩という面積をもって開始された。当初コーヒー栽培を計画したがうまく行かず、一九〇一年には崩壊してしまった。失敗の原因を照井は、測量にあたった英国殖民会社がその報酬として土地の三分の一を政府から譲渡されたが、その際、コーヒー適地の平地を取られ、日本人に残った土地は山岳部ばかりであった点を挙げている。
 殖民地選定の事前調査者の無能ぶりをあげつらい、「役にも立たない山ばかりを多く買い入れたというのはいかにも迂愚の極み」(一八八頁)と断ずる。
 また「失敗第一の原因は、最初から真面目に殖民事業を経営しようとは思わず、ただ移民を送って当時最も有利と言われたコーヒー栽培で利益を貪るつもりであったからである。だから土地の購入にも殖民には不適当な山地を買ったし、株主の賛同もコーヒーの利益ということをもって得たのがそもそもの榎本子爵の失敗である」(一八九頁)という照井の言葉は、第一回移民船・笠戸丸を遡ること六年の一九〇二年に書かれたものだ。

 失敗する殖民事業を横目に、照井が代表となって日墨協働会社を同国法律に則った法人として一九〇六年に設立した。一九〇七年の定期総会で、照井はその高邁な経営理念を述べた。
 「我々の事業は五年や十年の間に多大の富を作るのではありません。個人として多くの財産を貪るよりも、各人が相助けて衣食住に不便なからしめ、緩急相救い、子孫に無学の徒なからしめる事に努めるところに会社の精神があるのです。世間には無学であっても数百の富を得て珍味を口にして醇酒に酔って美人に戯れる者を羨む者もいますが、我々社員の理想はそんな卑しいものであってはなりません。たとえ各人利益は少なくても人々が皆安穏に生活し、完全に児童の教育を行い、日本民族の発展を百年後に期するという遠大な思想を保持しなければなりません」(二一一頁)
 当初六人からスタートし、牧畜、酒造、野菜園、商店などの経営も行い、順調に伸び、日本から医師と教師を呼び寄せたりもした。日墨協働会社が移住史に名を残したのは、会社独自の学校を建てて子弟教育を行った事と、スペイン語日本語のローマ字式辞典を編纂したことによる面が大きい。
 当時、移住者のほとんどは男性であり、現地のメキシコ女性と結婚した。子弟への日本語教育は早急な課題とされ、会社設立とほぼ同時期に暁小学校建設が始まった。照井は「文字はローマ字を用いて習文の苦労を少なくさせる」方針を持って望み、会社の利益を注ぎ込んだ。
 しかし、一九一二年、会社と村の間に土地問題が発生し、小学校は移転せざるをえなくなった。その背景には一九一〇年に勃発したメキシコ革命があった。
 日本でも一九〇七年頃、東京帝国大学の田中館愛橘教授らによって「ローマ字国字運動」が推進されはじめていた。そのような流れの中で、西日辞典の編纂も行われた。同辞典の緒言で照井はこう記している。
 「榎本子爵が計画した墨国殖民として我らはスペイン語国民中に孤立して存在し、色々と辛酸を嘗め尽くした。誤解を取り払うことができず、無実の罪も解らず、当然の権利をも主張することができず、日夜無知の現地住民から浴びせられる理由のない嘲笑にすら答えることもできず、屈辱の恨みを尽くし、悲憤の涙に送った日月は幾許であったろうか。これは実に形容できない一種の悲劇だった。一八九八年から一九一四年まで大学に雲霓(雲間に虹)を望む思いで西日辞典の出版を渇望した」(二九二頁)
 一九一四年に日本から呼び寄せた社員に編纂を任せ、三年がかりで脱稿。日墨協働社自ら出版を考えていたが、メキシコ革命で幾たびも略奪にあって損害を出し、その後の経済混乱で協働社は一九二〇年に解散になった。原稿は日本へ持ち込まれ、一九二五年にようやく右文社から二千部が発行された。
 照井は会社を畳んだ後、一九二九年にベラクルス州の寒村ロドリゲス・クララに移り、薬局を開業した。翌三〇年十月、狭心症のために死去した。享年五十六歳、渡墨後、三十三年で異国の土となった。現在は四十人ほどの子孫が、同州で暮らしているという。
 川路さんは、三回にわたるメキシコ調査や岩手県、宮城県の縁の地を訪ねた記録を最終章に記す。「彼は大いなる理想を持ってメキシコに渡り、困難に立ち向かった。男のロマンと苦悩を感じる」(岩手日報四月三日付)と照井の魅力を語っている。そして、こう著書を締め括った。「つわ者共の夢の後――時の流れは歴史になった」。
 網野弥太郎・県連顧問は「ブラジルの日系社会もいずれこうなるのか、という感慨を強く持った。メキシコでは五世代たって混血もさらに進んだが、まだ日系人であることに誇りを持っているそうだ。人ごとじゃないよね、我々にとっても」と読後の感想を語った。