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200年前〝初到伯〟=『環海異聞』の4人=下=SC州の農産物を見聞=帰国後は郷土の誇り

11月14日(金)

 日本人がブラジルに初上陸した一八〇三年は、ナポレオン軍の侵攻を避けて、ポルトガル王朝がブラジルに移転する五年前だった。
 一八〇四年二月八日、出帆し、滞在は七十一日間だった。カムチャッカより日本の東南を経て、種子島付近を過ぎ、長崎に着いたのが文化元年(一八〇五年)、幕府に引き渡されたのが翌年。石巻港を出て十三年目のことだった。
 長崎に帰着したのは次の四人。津太夫(仙台藩寒風沢、六一歳)、儀平(仙台藩室の浜、四三)、左平(仙台藩室の浜、四一)、太十郎(仙台藩寒風沢、三四)。鎖国中のことで、津太夫らが上陸を許可されたのは、六カ月後のことだった。最年少の太十郎は、帰国の喜びと、いつ上陸できるかの心配で、精神錯乱を起し、刃物を嚥下し自殺を図る。一時危篤となるも、治癒した。
 彼らの旅行記録は、仙台藩主の命により、蘭学者の大槻玄沢が『環海異聞』としてまとめた。「サンタカタリーナにおいては、上陸して見聞した住民、産物について記録しており、当時の農産物についての重要な資料になっている」と『日本移民・日系社会史年表』には記されている。
 仙台出身の歴史家〃雪狼〃氏はHP(homepage2.nifty.com/snowwolf/tsu.htm)で、四人のその後を追跡調査している。
 自殺を図り廃人となった太十郎は、生まれ故郷に戻ってすぐ病死した。享年三十六歳の若さだった。墓は宮城県の宮戸島に残されており、戒名は本田壽良信士、「たじゅうろう」と読める。太十郎がロシアから持ち帰ったジャケットが、子孫の奥田家に所蔵されており、若宮丸一行唯一の遺品となっている。
 同じ宮戸島の儀平も後を追うように半年後に死んだ。四五歳だった。戒名は、その特異な経験を彷彿とさせる長流来見信士。墓は見つかっていない。儀平が婿入り先に戻ると、待っていたのは自分の位牌を守る妻でなく、新しい婿だった。二人の菩提寺は室浜の観音寺。
 津太夫と左平は長生きした。一行のリーダー、津太夫は石巻の船主米沢屋を訪れ、漂流の顛末を話した。「石巻禅昌寺に建てられた自分たちの慰霊碑を、彼はどのような思いで眺めたことだろう」と〃雪狼〃氏は思いを馳せている。彼はその後寒風沢に帰り、七十歳まで生きた。大覚浄智信士。最後まで生き残った左平は、帰国して二十年後に他界。享年六十七歳。戒名は観相了念信士だった。二人の菩提寺は寒風沢の松林寺。
 〃雪狼〃氏は「宮城県鳴瀬町は彼らの功績を称え、宮戸島の小高い丘に、世界一周の記念碑を建立した。太十郎が持ち帰ったロシアの服は今も保存されている。四人のご子孫は宮城県内にあり、今なお四人を誇りにしている」と記述している。
 〃雪狼〃氏によれば、世界周航船団に乗り組んだ日本人は、実は五人だったという。ロシアに帰化した善六も通訳として乗船、日本へは帰国せず、再びロシアに戻り、その後の日露交渉に重要な役割を果たした。
 一九五八年にフロリアノーポリスに調査に赴いた鈴木南樹は次の句を残した。
「太十郎もこのフィゲーラの下に立ちて 見上げしものか寺の十字架」
■参考文献
『移民四十年史』(香山六郎編著、一九四九)、『ブラジル日本移民・日系社会史年表』(サンパウロ人文科学研究所編)、『埋もれ行く拓人の足跡』(鈴木南樹著、一九六九)、歴史家〃雪狼〃氏によるHP「津太夫の世界一周記」(homepage2.nifty.com/snowwolf/tsu.htm)
    (深沢正雪記者)