その昔、ここに学校はなく親は、子供たちの教育に頭を悩ましていた
ある日、学校が建設された
日本人の家族が移り住んできたのだ
グァピアーラ市中心部からアピアイ方面に向かって車で約十五分のエンポッサード区。ここに、トシマル・カクタ小学校がある。歳丸が同市に移転後、間もなく、農業労働者(カマラーダ)の子のため、所有農地内につくったものだ。
同氏一周忌を記念して、市が顕賞碑を設置。除幕式が九八年五月に開かれ、文盲だったジョゼ・ダ・クルース・ロドリゲスさんが感謝の気持ちを冒頭の詩にした。
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」(新約聖書十一章十三節)
碑文にはポ語でそう記されている。敬虔なカトリック教徒だった歳丸は常に、地域社会の発展に目を向けた。何をするにしても、日系人だけで固まるようなことはしなかったという。
護憲革命(一九三二)では義勇兵として出征、サンパウロ州に忠誠を誓った。現地文協にも積極的に関わり、日系子弟の啓蒙活動に傾倒した。めぐみさんは「父祖の国日本と母国ブラジルの間で心が揺れていた」と亡き夫の心中を察する。
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市の人口は二万人。出生率は多いのにここ数十年、推移は横ばいだ。第一次産業以外の産業が発展せず、若者は仕事を求めて町に出たのだ。
日系農家は、六〇年代に、トマトの単作では収入が不安定になると危惧。桃の栽培にも手を伸ばした。一時は、アピアイ方面まで果樹園が広がり、隆盛を極めた。農家の次男、三男は故郷を去る運命にあった。 最盛期百六十家族ほどいた日系人口は七五年には半減。デカセギが追い打ちをかけた。農協クラブ(文協)は毎年、各種事業計画を立てるが、「人がなかなか、集まらなくてね」と関係者たちは歯切れが悪い。
歳丸に堪えたのは、コチア産組の任意解散。私生活を犠牲にして尽くしたのに、杜撰な経営で破綻してしまったからだ。鬱状態に陥り、「まるで廃人のようだった」とめぐみさんは言う。痴呆も顕れ、失意のうちに、九七年七月、脳出血のためこの世を去った。
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今年十月二十六日午後。イビウーナ文協を訪れると元気のよい子供の声が戸外にも、伝わってきた。中に入ると、約百人の聴衆を前に、日本語学校の生徒が壇上でスピーチを披露していた。
聖南西教育研究会主催の「第五回聖南西お話し大会」が開かれ、グァピアーラ日伯学園も出場した。グァピアーラ市はイビウーナ市から車で約三時間の距離。聖南西地区のはずれだ。
学園は父兄たちによる経営で、めぐみさんが教師を引き受けて今年三年目。十人だった生徒数は十七人まで増加した。歳丸の遺志を引き継いで、給与は一最低給料しか受け取っていない。
お話し大会には六人が参加、うち五人が入賞。この日一番の朗報として、移住者たちに伝えられていった。帰宅の車中で、子供たちは、「川の流れのように」、「上を向いて歩こう」など日本の歌を歌い、賑やかな道中が続いた。
生徒たちが将来、古里を捨てる日が来るかもしれないと思うと、胸中は複雑だ。再来年は日本人入植七十周年。同地日系移民史を消さないため、現地在住者のもうひと踏ん張りが期待されている。一部敬称略。 (古杉征己記者)