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ジョエウマビル火災 よみがえる〝地獄絵〟=救助隊員が恐怖語る

10月25日(土)

 【フォーリャ・デ・サンパウロ紙7日】1974年2月1日金曜日午前―。死者187人、負傷者数百人というサンパウロ市史上最悪の火災が発生した。同市ノーヴェ・デ・ジューリョ大通りとサント・アントニオ大通りの角にあったエジフィッシオ(ビル)・ジョエウマ(以下、Jビル)の火災である。被災者救助に当たった同市軍警特別業務中隊(COE)のマルシーリオ・マシャード・フィーリョ元軍警兵士の体験談を、フォーリャ紙が連載「サンパウロ450周年」で掲載している。
 クレフィスル社所有の同ビルは24階建てで、犠牲者のほとんどは同社に勤務していた若者たち。この火災が起きる2年前、サンジョアン大通りのエジフィッシオ・アンドラウスでも火災が発生し、16人が死亡していたが、Jビルの火災はこれよりも数倍恐ろしい大惨事となった。
 Jビルの被災者救出作戦に参加した消防隊員や軍警官の中に、当時皆から〃末っ子〃と呼ばれていたマシャード元軍警兵士がいた。現在マシャードさんは50歳、弁護士として活躍している。
 マシャードさんは当時の様子を鮮明に覚えている。猛烈な炎に追われて窓の端にうずくまる人々、屋上でヘリコプターの救助を必死に待ち続けるグループ、熱さでがまんができなくなり身投げする犠牲者たち。彼はこの絶望的な情景を目の当たりにした1人だ。
 当時、テレビで茶色の背広を着た男性が、タバコを何本も吸いながら辛抱強く救助を待つという印象深い映像が放映された。
 「我々はリスクの高い状況での救助活動のトレーニングを受けていた。だが、あのような惨事に出くわすとは夢にも思っていなかった」と、マシャードさんは追憶する。COEの隊員らは、Jビルでの救助活動が非常に困難なことにすぐ気が付いた。「ビルには火災時の非常階段がなく、ヘリポートもなかった。しかも我々はガスマスクというような基本的な器具を持ち合わせていなかった」。
 それでも彼と仲間たちはJビルを登り始め、ビルの屋上までたどり着いた人々を救おうとした。「多くの人々を救うことができたが、数十に及ぶ遺体が横たわっているのも見た。鍵が閉まっていたトイレをこじ開けた時、熱でほとんど溶けていた遺体の山に出くわした。恐ろしい光景だった」。
 彼が受けた救助トレーニングはほとんど役に立たなかった。「ビルに着いた時、人々が上から落ちてきた」。少なくとも20人が飛び降りたことが分かっている。
 マシャードさんと仲間たちは、ある階で今にも窓から飛び降りようとしている男性を発見。「我々は幾度も彼にこちらに来るよう叫んだ。彼は『いやだ、ここから飛び降りる』と言った。炎が彼と我々の間にあり、うかつに近づけなかった。彼は迷ったあげく、こちらに走ってきたが、火が前より強くなっており、炎に包まれてしまった。自分の腕の中で彼は死んだ。申し訳ないと思っている」。