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平成の自由渡航者たち=運命の出会いに翻ろうされて(4)=韓国移民と結婚し渡伯=ボンレチーロでビーズ刺繍

9月9日(火)

 「あら、ここのデザイン、ちょっと間違っているわね」。
 「大変! もう一度、ほどいて縫い直さなきゃ」。
 ボン・レチーロ区、あるアパートの一室での会話だ。
 栗木圭子さん(四八、大阪府出身)は、自宅でパーティー用婦人服のビーズ刺しゅうで収入を得ている。
 圭子さんは大学で社会福祉を専攻、その後も同分野で働いていた。八六年から韓国に語学留学、八八年、後にパートナーとなる申亨澈(シン・ヒョンチォル)さん(四九)と恋に落ち、韓国での同棲生活が始まった。
 ヒョンチォルさんは七二年、家族とともに渡伯した移民一世。そのため、圭子さんは何度か韓国と日本、ブラジルの間を行き来した。「ブラジルの珍しい物を買い付けて売っていた。あの頃はバブルだったから、そんなことができたのかも」と振り返る。
 しかし、六年前、ヒョンチォルさんは父親が亡くなったため、ブラジルへ戻らなければならなくなった。圭子さんは一緒にブラジルへ行くことを決意、最初は観光ビザを更新しながら滞在し、九八年、カルドーゾ大統領(当時)の恩赦で永住権を取得した。
 「海外に出る時、まず、仕事のことを考えた」と圭子さん。最初の一年間はヒョンチォルさんの家族と過ごした。家の中は韓国語、住んでいるところも韓国語、流暢な韓国語を話す圭子さんにとって、何の不自由もなかった。
 二年目、旅行で訪れたサントス市を気に入り、喫茶店を開いた。日本から持ってきた焼き物も販売した。「サントスの雰囲気が気楽でいいなーと思った。商業許可をとるのも簡単だった」。しかし、港湾都市で漁師の多いサントスは、ビールの似合う街。「おしゃれな喫茶店は、開店休業だった」。一年半でカフェテリアは閉店した。
 続いて圭子さんら二人はミナス・ジェライス州サントメー・ダス・レトラス市に移った。「やっぱり、旅行に行って気に入ったのよ」と圭子さん。同市でランショネッテを開いた。買い出しのため、月一回程度サンパウロへ出掛けていたが、かねてから絵を描いていたヒョンチォルさんに、夏服のペイントの仕事が入り始めた。
 「彼の絵の仕事が忙しくなって、ミナスの家を空けることが多くなったから、思い切ってサンパウロに出てきたの」。〇二年四月、現在の住まいに引っ越した。「海より山が好きだから、ミナスも大好き。だけど、日本文化に親しめなかったのが淋しかった」と圭子さんはいう。
 サンパウロではヒョンチォルさんの妹に勧められ、ビーズ刺しゅうの内職を始めた。グループ・ニッケイや文協に貼り紙をして人を集めボルダードグループを結成、圭子さんは洋品店とデザインを交渉、日系の婦人らが刺しゅうに取り組んでいる。
 「サンパウロに来て、初めて日系人と付き合うようになった。言葉が通じるので、仕事の面ではこれで良かったと思う」。
 韓国コロニアで生活する圭子さんにとって、日系社会の知識はほとんどない。しかし、「韓国移民は四十年、まだ足りないものがたくさんある。日本移民は図書館もあるし、個人的な情報も豊富。百年近い重みを感じる」という。
 韓国街の喧騒が聞こえるアパートで、もくもくと針を運ぶ圭子さん。「これからは、ブラジル人との交際を増やしたい。ブラジル人たちに、日本のものを紹介したい」と静かに語った。
(門脇さおり記者)

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