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バタテイロの成功者物語物語1冊にー常に新たな挑戦―百合さん、後進も育てるー70代から「りんご」、90代で「木炭」

8月7日(木)

 太平洋戦争前に永住目的でブラジルに移住し、バタタの栽培で成功した百合栄一さん(九七、愛媛県出身)の半生を描いた『パイオニア物語 芋作りの神様百合栄一・一代記』がこのほど、日毎叢書より刊行された。ピラール・ド・スール市(SP)の百合農場に配耕され、同氏とは付き合いの深い宮本龍一さん(六〇、鹿児島県出身)が二年がかりでまとめた。日記やメモなどが随所に紹介され、バタテイロの本音が見え隠れする。
 百合さんは一九〇六年生まれ。実家は半農半漁で生計を立てていた。尋常小学校時代、南米大陸の地図を眺めて、幹線道路や鉄道線路が十分に整備されていなかったブラジルに無限の可能性を感じた。
 叔父、二宮住四郎さんがブラジルに移住することを聞きつけ、構成家族に加わった。一九二五年のことだ。
 「先日来より病んで居た二宮の娘つま子、久雄が死でからまだ一カ月たたぬうちに他界の人となるとは夢にも思わなかった」(原文まま)。
 百合さんは渡伯一年目の出来事や心情をこまめに日記に書き記している。入植先、サンタ・マリア耕地(ソロカバナ線)での生活は苦難の連続で、わずか三カ月で退耕することに。
 その後、アルバレス・マッシャードのブレイジョン植民地を経て上聖。サンパウロ市では、左官の助手やフェイランテの手伝いなど職を転々と変えた。
 一九二七年、バタタ景気で沸くコチアに向かい、親類の紹介で村上誠基氏の元に飛び込んだ。一時期、進路に迷ったが、農業で生きていくと決断。バタテイロへの道が始まった。
 独立したのは三六年。バタタは連作を嫌ったため、農家の多くは借地で栽培していた。が、永住目的で渡航したこともあり、次々に土地を購入、私有地を広げた。
 最盛期にはイビウーナ市、ピラール・ド・スール市、ソロカバ市などに計千アルケールを所有していた。
 バタタ栽培で名が売れると、コチア組合や地元の文協から声がかかり、多くの公職を持った。「仕事が趣味」のような人で遊びは苦手。宴会での場持ちはよく務められなかったという。
 事業欲は盛んで、七十代に入って、サンジョアキン市(SC)でりんご栽培に乗り出し、九十代に入って訪日、木炭製造の現場を視察した。年齢に関係なく、新たな挑戦に挑む姿は、「パイオニア」と呼ぶにふさわしい。
 戦後はコチア青年や産業開発青年隊などの受け入れ先になり、七十人が百合農場で就労した。〃後輩〃の面倒みもよく「オッチャン」と親しまれている。
 著者の宮本さんは六八年に全拓連の扱いで渡伯した。グァタパラの全拓連農場を経て百合農場に配耕。七三年に転出するまでの約五年間、同農場で過ごした。
 出版記念パーティーが三日、ソロカバ市の百合さん宅で開かれ、宮本さんは「事業に対する百合さんの熱心さが少しでも多くの人に分かってもらえれば」と著書をPRしていた。