7月17日(木)
第三回
まずいことになったー。 式典を八カ月後に控えたこの時期に委員会のトップが辞任してしまうような状況が世間に知れてしまうと、式典開催どころか、コロニアの体面にも関わるー。
「辞表は竹中さんと水本さんにも渡されていたようです。辞職の理由は体調ということでしたが、やはり委員会内の信任を得られないこと、そして竹中さんへの感情の問題が大きかったのではないでしょうか」と安立さんは回顧する。
急遽、鳩首会議を秘密裏に開いた三人は、数日間対策を練った。
―尾身さん病気で倒れるーとの新聞記事がでたのは十月十五日のことだった。
それは三人以外には決して口外されず、竹中会長と共に日本を訪れた援協幹部でさえも、その真相を知らされたのは、かなり後のことだったという。
【説得】
「まあ、体調というか、尾身さんは完全にノイローゼになっていたようでした。色々なことで本当に参ってしまって、仕事などできるような状況でなかったことは確かです」。
竹中会長と水本氏は、サウーデ区にある尾身さんの自宅に通った。
「三回は少なくとも、行ったのではないでしょうか。それはもう必死でしたよ」。
自身は足を運ばなかったものの、安立さんも電話などで説得を続けたという。
尾身さんの自宅でどのような話し合いが行われたのかは想像するほかない。なだめたり、すかしたりと一週間にわたる必死の説得工作の結果、復帰の約束を取り付けたが、尾身さんが復帰したのは、一カ月半後の十一月末のことであった。
―尾身さん復帰 四五日振り元気な姿でー(パウリスタ新聞)
「休養中は、皆さんに大変ご迷惑をかけた。休んだ間の分まで、これから頑張ります」
【批判記事】
祭典が行われる八八年を迎えて間もない一月二十二日、「万歳三唱事件」は邦字紙の報道を通して、コロニアの耳目を集めることになる。
過去の話を蒸し返された形になるが、四人以外には全く漏れていなかった話。対外的に〝あるポーズ〝は取らなくてはいけないだろうー。
全てが予定調和の上で成り立っていた。そして、尾身会長の辞表提出の宣言。そして事情をどこまで把握していたかは今では知るすべはないが、三人の副委員長たちも続いて、辞意を公表したー。
四人は連日報道される新聞の記事などを眺めながら、騒動の収拾の潮時を探していたのかも知れない。
「(委員会内で)事情を知らない委員たちから多少の批判はありましたが、『コロニアのことを思ってやったこと』と委員会全体としては同情的でしたね。まあ、尾身さんの人柄というものもありましたしね」。
実際、本当に四人が辞任してしまったら、委員会が立ち行かなくなるのは自明の理でもあった。
結果、うやむやのうちに一連の騒動は幕を閉じ、『雨降って地固まった』委員会は八十周年祭に向けて走りだしたー。
「まあ、色々ありましたが、最終的に八十周年祭は『コロニアでもっとも華麗な祭典』といわれたほどの大成功を収めたんですよね」と安立さんは八十周年委員会の裏舞台の様子を懐かしそうに語ってくれた。
(堀江剛史記者)