7月16日(水)
【催促】
竹中正援協会長(八十周年祭委員会の副委員長でもあった)は援協幹部三人と共に八七年六月から訪日していた。日伯友好病院建設のための資金協力の依頼が主な目的で、関係機関を回っていた。その中に振興会も入っており、一億円の寄付の話がまとまりかけていた。それには、笹川会長に対しての条件があり、次の三つがその主な内容であった。
一、万歳三唱発声の依頼を行うこと。
一、サルネイ大統領と共にロイヤルボックスに臨席させること。
一、ブラジルにおける最高勲章を贈る運動をすること。
振興会側が、「八十周年祭委員会の委員長と話をしたい」と望んだことから、日本の竹中会長から、電話がひっきりなしにかかることになる。
「早く渡日するようにと毎日、毎晩、事務局や(尾身会長の)自宅に電話がかかってきてましたね」と安立さんは当時を振り返る。
しかし、祭典委員会が発会したのは、八七年の七月のこと。具体的なものはまだ何も決まっておらず、「委員長といえども、そのような重大な決定を独断で下すのは問題だと感じたし、時期尚早に過ぎた」。
「しかし…」と安立さんは続ける。「二人は仲が良かったので、(竹中会長を)を助けたいという気持ちも強かったのではないでしょうか。そういうわけで尾身さんは『おっとり刀』で駆けつけたわけです」。
尾身委員長の〝協力〟もあり、竹中会長たちは総額四億円近い寄付金を集め、八月一日に帰伯、邦字新聞などを通じてコロニアに、喜びの報告をしているがー。
【辞表】
同月二十七日の尾身委員長と安立事務局長帰伯後、レストラン「協栄」で開かれた報告会のことを、安立さんは今もよく覚えているという。
「(尾身委員長が)事の次第を報告した後、反発した委員たちにつるし上げを食う形になってね、それは激しいものでした。まあ、それは尾身さんも予想はしていたでしょうが、一番こたえたのは竹中会長からは支持どころか、発言さえなかったことではないでしょうか。唯一水本さんだけが援護するような発言をしていたのを覚えていますね」。
孤立無援―。独断で重大な決定をしてしまったかも知れないが、もちろん、コロニアのためを思ってやったこと。誰の信任を得ることもできず、義を尽くしたつもりの友人も沈黙を守っている・・・。
非難の矢面に立たされた尾身委員長の胸に去来したものとは何であったろうー。
報告会から約一週間後、尾身委員長は日付(十月十日)と署名が入っている辞表を安立事務局長宛に送っている。
ー安立さん斯の様な事を申し挙げて、唐突であり、非常に失礼でありますが今回十月十日付を以てブラジル日本文化協会会長、並にブラジル日本移民八十周年委員会委員長の職を辞めさせていただきます。
正式な辞表は改めて別に提出しますが、安立さんをはじめ二、三の特別の知人のみ、私の気持ち(立場)を事前に傳え、ご了解を希うものですー。(原文ママ)
文協用箋にしたためられた辞表は三枚にわたっており、辞職の理由を「健康上の問題」とした後に続いて、事務的な報告や八十周年祭の成功を祈る言葉が綴られている。
安立さんは仰天した。
(堀江剛史記者)