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25年前の埋もれた〝秘話〟=実はあるぜんちな丸だった=移民史料館の目玉展示 ブラジル丸

7月8日(火)

 文協ビルにある史料館の六階入り口を入って、すぐ目に飛びこんでくるブラジル丸(五十分一)の模型。七八年の史料館設立時から、同館の目玉展示物としてガイゼル大統領から天皇陛下まで、日伯VIPや数万人の来場者の注目を浴びてきた。しかし、このブラジル丸、史料館に展示される以前は、神奈川県にある江の島水族館に展示されていた〝あるぜんちな丸〟だったという。(文協四十年史)何故、あるぜんちな丸がブラジル丸に変わってしまったのか。七六年に訪日し、寄贈要請を実際に行った安立仙一事務局長にその真偽を尋ねたところ「もう昔のことですが・・・」 と当時の状況を語ってくれた。(役職名は全て当時のもの)

 一九七六年、第五代文協会長の故中沢源一郎氏と安立仙一事務局長は日本へ向かった。
 訪日の主な趣旨は、史料館建設補助金の交付を日本政府に陳情するためであった。その他に国立民族博物館の梅棹忠夫館長を訪ね、史料館建設について意見を聞くことや、明治村や北海道開拓記念館などを見学し、参考資料を得ることなどが含まれていた。
 そして、博物館明治村(愛知県犬山市)と大阪商船三井船舶にそれぞれ船舶模型の寄贈を要請することも重要な任務であった。
 明治村は史料館に寄贈するため、笠戸丸の製造を籾山船舶模型製作所に依頼、七八年三月に完成している。
 商船三井の方は、七六年秋に訪伯した福田久雄相談役と前約束を交わしていたが、当時、同社が管理していた船舶模型は江の島水族館に貸し出していたあるぜんちな丸しかなかった。
 ブラジル丸かサントス丸があればいいのだがー。
 安立事務局長は「やはり、ブラジルの史料館に陳列する船の模型の名前があるぜんちな丸では具合が悪いと思いましたね」と当時を振り返る。
 あるぜんちな丸もブラジル移民を乗せた移民船であるものの、やはり目玉展示物にするには、ブラジル丸の方が格好がつくー、と考えたのは自然だったのかも知れない。その時一緒にいたのは、史料館の建設を手掛けた丹青社の佐々木朝登取締役と商船三井の社員であった。
 誰が言い出すともなく、あるぜんちな丸はブラジル丸に変わったー。
 ブラジルに運ぶ前には、船体に書かれていた「あるぜんちな丸」の船名は「ブラジル丸」に書き換えられた。
 破損していた船体の一部や、ペンキの剥げた部分の修復に三百万ほどかかったが、その際、ブラジル丸と書かれているプラッカ(史料館の模型の傍らに設置されている)も同時に作成されたのだという。
 「全く違う型の船というならともかく、ほとんど同型の船ということでしたし、その時は中沢会長を始め、罪悪感といった感覚は誰も持っていなかったと思います」と安立前事務局長は当時を振り返る。
 二十五年間も〝偽装〟工作が施された模型が陳列されていたー。
 「結果的には欺いてしまったのかも知れませんが、コロニア初の史料館建築を実現し、その完成度を高めたいという思いが強かったのは確かですね」
 行き過ぎの感は否めないが、当時の史料館建設にかける関係者の思いが相当に強かったことを伝えるエピソードである。
 移民七十年の記念事業であった史料館建設に盛り上がっていた、四半世紀前のコロニアの熱気と盛り上がりを伝えるブラジル丸(元あるぜんちな丸)は、史料館で今も来場者を迎えている。