7月3日(木)
一九二八年三月十七日、ついに出発の日がきた。講話と予防注射に明け暮れた七日間だった。
雨の中を到着した初日の身体検査、二日目の第一回チフス予防接種、三日目は午前の講習(一般的心得、外国における邦人の心得、ブラジル事情、歴史、社会事情、国際性及農業並びに移民事情)、午後ブラジル語及び衛生講話、四日目は種痘と講習、女子裁縫、五日目は代表者会議と荷物整理、六日目は第二回チフス予防注射、渡航費精算、七日目が家長会議、講習、ブラジル語。慣れないことばかりの連続であった。
午前十時、移住者は収容所前の広場に整列した。この広場、当時は広かったが、後に前面の道路拡幅で削られ、現在はとても七百八十一人は整列できない。子供たちから「注射をする怖いおじさん」と恐れられた長峰医官が激励の挨拶をした。移住者は挨拶の中身よりも「これからは痛い注射とはおさらばだ」とほっとする。全員で万歳三唱し、収容所を後にした。
「異様な洋服姿で 長蛇の列を作った移民たち 珈琲かほるブラヂルに新天地を求め 賑やかな鹿島立ち」(神戸又新日報 昭和三年三月十九日号見出し)。
「城ケ口からアノ坂道を電車道へ下った。行李をかついだおやぢ、サイダ-をひっさげる若者、赤ン坊を背負った女房などの洋装ぶりは正に異様のいでたちである。それが延々として長蛇の列を作ったのだから街の人々の驚いたのも無理はない」(神戸又新日報(一九二八年三月十九日 原文のまま、以下同じ)。
幅員六メートル足らずの城ケ口筋、穴門筋をまっすぐ下って、元町通りと南京街を右に、左手の前年開業したばかりの大丸百貨店と旧居留地の立派な建物に目を見張りながら、鯉川筋を抜け海岸通を経て、埠頭まで徒歩約三十分強の行程だ。
神戸の町の山手から埠頭まで、二キロの道を荷物をかついで延々と下る七百人の隊列は、移住者になれている神戸市民にとっても始めてみる光景だった。
というのは、移民収容所ができる前は、移住者は、海岸通、元町通りなども十数軒の移民宿に分宿しており、移民宿から埠頭までの距離も近かったので、乗船日に埠頭へ移動してもさほど目立たない。山手の収容所からこれだけの数の移住者がまとまって、神戸の中心部を隊列を組んで港まで下っていったのは初めてのことだので、このような記事になったのだろう。
埠頭では大阪商船の移民船はわい丸(一万トン、輸送人員七百人)が停泊していた。「南米移民歓迎」のアーチが手すりに張られている。この船でインド洋、大西洋の荒波を越えてブラジルへ行くのだ。威圧感を与える大きな鉄の船体が頼もしげに見えた。午後四時、出航のどらが鳴る。「赤青黄のデコレーションも美はしく(中略)色とりどりのテープの交錯もいつもより多く、のどかな陽光にヒラヒラはためいた」。
見送り人の中に神戸取引所常務理事の中村寅吉氏がいた。「『お江戸(中略)で鳴らした谷崎家(谷崎潤一郎氏の親族)が関東大震災でやられて南米に移民したので、僕は谷崎氏と取引の深かった関係からそれ以来ずっと移民諸君とは馴染を続けているのだ』と氏は語った。かくて移民諸君は氏から寄贈された『日本忘れぬ』の手ぬぐいを打ち振りつつ船出した」。歴史に残る、神戸収容所第一期生の旅立ちだ。
忘れられない船だ。
■移住坂 神戸と海外移住(1)=履きなれない靴で=収容所(当時)から埠頭へ
■移住坂 神戸と海外移住(2)=岸壁は涙、涙の家族=万歳絶叫、学友見送る学生達
■移住坂 神戸と海外移住(3)=はしけで笠戸丸に乗船=大きな岸壁なかったので
■移住坂 神戸と海外移住(4)=国立移民収容所の業務開始で=移民宿の経営深刻に
■移住坂 神戸と海外移住(5)=温く受け入れた神戸市民=「移民さん」身近な存在
■移住坂 神戸と海外移住(6)=収容所と対象的な建物=上流階級の「トア・ホテル」
■移住坂 神戸と海外移住(7)=移民宿から収容所へ=開所日、乗用車で乗りつけた
■移住坂 神戸と海外移住(8)=憎まれ役だった医官=食堂は火事場のような騒ぎ
■移住坂 神戸と海外移住(9)=予防注射は嫌われたが=熱心だったポ語の勉強
■移住坂 神戸と海外移住(10)=渡航費は大人200円28年=乗船前夜、慰安の映画会
■移住坂 神戸と海外移住(11)=収容所第1期生の旅立ち=2キロを700人の隊列
■移住坂 神戸と海外移住(12)=たびたび変った名称=収容所、歴史とともに