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ペレ―とプレーした日系人=カネコさん 伝説の美技=67、68年に州選手権連覇=「サントスはボカを破る」

7月1日(火)

2連覇した時のペナントを持つカネコさん

2連覇した時のペナントを持つカネコさん

 【サントス市=下薗昌記記者】「サントスはボカを破って必ず優勝するよ」――。二日に予定されているサントス対ボカ・ジュニオールス(アルゼンチン)によるリベルタドーレス杯の決勝第二戦。敵地で敗れたサントスは最低でも二点差以上の勝利が優勝の条件となるだけに苦しい状況だ。しかし、サントスの勝利を固く信じて疑わない一人の日系人が、地元サントス市にいる。一九六〇年代の黄金時代に王様ペレーら数々のブラジル代表(セレソン)と共にサントスのユニフォームを身につけた日系三世、アレシャンドレ・デ・カルヴァーリョ・カネコさん(五六)だ。クラブ史上最も美しいゴールを生んだパスを送ったことで名高いカネコさんは、自らの古巣が四十年ぶりの南米王者に輝く瞬間を心待ちにしている。
 二〇年代に当時の首都だったリオデジャネイロに移住した祖父母を持つ日系二世の父と、パライーバ州出身の母との間に生まれたカネコさんは四六年生まれ。幼くして両親を亡くし、その後五〇年ごろにサントスに移り住んだ祖父母に育てられた。
 カネコさんがボールを追い始めた十歳当時は、まだセレソンが世界の頂点に立つ前の時代。ロマーリオやジッコら数々の天才が、海岸線の砂浜で技を磨いたように、カネコさんもサントスでビーチサッカーに明け暮れた。
 「カリオカだったこともあり、僕のアイドルはガリンシャだった。テレビで見ては真似ばかりして練習していたよ」。現役時代、スピード溢れるドリブラーとして知られたカネコさんは、自らの原点は大天才ガリンシャだと位置づける。
 ビーチサッカーや少人数制のサロンフットボールでひたすら技を磨いた少年カネコは、サンパウロ市内のマッケンジー高校に進学し、本格的なサッカーにのめり込み始める。
 ただ、厳格な祖父母に育てられたこともあり、カネコさん自身はプロサッカーの道に進むつもりはなかった。「夢にも思ったことはなかったよ。大学で体育学でも学ぼうと思っていたしね」というカネコさんだが、サントス市内のアマチュア大会で活躍する日系人の存在を、サントスは見逃さなかった。
 六四年、サントスの下部組織にスカウトされたカネコさんは、初めて純白のユニフォームに身を包む。
 現在、世界最高のクラブとして知られるレアル・マドリッド(スペイン)同様、当時のサントスは世界中から最も注目を集めたクラブだった。八回の州選手権制覇に加え、六二、六三年にはクラブ世界一(現在のトヨタカップ)を獲得。ブラジル国内だけでなく、世界中でも無敵の存在として知られていた。
 「誰もがサントスでプレーしたかった時代。その一員になれた喜びは表現できないよ」とカネコさんは誇らしげに笑顔を見せる。
 六七年の親善試合で活躍後、正式にプロ契約しトップチームの一員となる。
 王様ペレー、七〇年のセレソンで主将を務めたカルロス・アウベルト・トーレス、クロドアウドら名選手らとともに六七、六八年の州選手権連覇に貢献したカネコさんが、最も輝いた一日がある。
 六八年三月九日の州選手権対ボタフォゴ戦。
 クロドアウドのパスを右サイドで受けたカネコさんはドリブルで攻め上がり、対峙するDFを前に、ボールを両足のかかとではさみ、頭越しに浮かして抜き去った。カネコさんがゴール前に送ったラストパスを、トニーニョが得点。ピッチ上で一六三センチの小柄な日系人が見せた「奇跡」に観衆はもちろん、ブラジルメディアも大騒ぎとなった。「翌日、フォーリャ紙の記者が来て、あの技を再現してくれと頼まれたんだよ」とカネコさん。
 数多く残されているサントスの文献にも、カネコさんのフェイントの美しさは記されている。
 その後クラブと衝突し、六九年末にはアルゼンチンのベレス・サウスフィールドに移籍したカネコさんは、奇遇にも現在ボカ・ジュニオールスを率いるカルロス・ビアンキ監督ともプレー経験を持つ。「僕はレギュラーだったけど、あいつは補欠。監督としては成功したけどね」と愛するサントスの前に立ちはだかる名将にもエールを送る。
 二十代前半でペレーとピッチに立った伝説の日系人プレーヤーは、ジエゴやロビーニョらにかつての自分を重ねこう言いきった。
 「両チームの力は全く互角。今度はサントスが勝つ番だ」