6月24日(火)
生粋の神戸っ子でも「城ケ口筋(じょうがぐちすじ)はどこにあるか」と聞かれてすぐ答えられる人は少ない。だが、震災前には「かき十」という牡蠣専門料理屋があったあの道、といえばたいていの人は知っている。元町駅から鯉川筋を北へ、山手幹線を越えて急に細くなるあの坂道、今は地図に「城ケ口」の地名は見当たらず、わずかに交番、幼稚園にその名が残っているだけだ。
この坂道の突き当たりに一九二八(昭和三)年三月、わが国初の国立神戸移民収容所が開業した。地元の熱心な誘致運動の末実現したこの施設と第一期移住者を、地元紙「神戸又新日報」は開業前から移民船乗船まで連日報道している。
「開館された移民のお宿 来る十日に収容する最初のお客が六百名」の見出しで、「神戸市城ケ口に完成した国立移民収容所は愈愈業務を開始した」。「収容所が完成されるや城ケ口付近の地価ならびに家賃は一躍暴騰をきたし、なかには権料千円を唱える住宅の出現さえ見た。一方、海岸通にある、いはゆる移民宿は大恐慌をきたし善後策を講じている。客足減少はどうしても免れぬ模様で、既に一、二の移民宿では多数の使用人を解雇したものもあるといはれている」(神戸又新日報一九二八年三月五日)。
収容所開設は、明治以来メリケン波止場に近い海岸通、栄町などで営業してきた移民宿の経営に深刻な影響を与えることになり、各移民宿の集客競争が激化した。日伯協会機関紙「ブラジル」(一九二七年十月号)に市内十三軒の移民宿が広告を出している。栄町には前田旅館(4丁目41)、自由館(4丁目43)、今泉旅館支店(5丁目68)、神戸館(6丁目21)、高谷旅館本店(6丁目)の五軒、海岸通は吾妻屋(6丁目)、今泉旅館本店(6丁目3)、神戸館支店(4丁目中税関前)の三軒、元町は大黒屋(3丁目鉄道側)、岩国屋旅館(6丁目)の二軒、北長狭通のゑびす屋(4丁目三ノ宮駅穴門上)、仲町(旧居留地)の坂井屋旅館(3丁目43)、宇治川楠橋東詰の高谷旅館支店だ。
移住者は、余裕を持った日程で神戸に到着し、あらかじめ指定された入所日まで移民宿に投宿し、入所を待った。日本中から神戸に集まる移住者は、家族連れで大きな荷物を持ち、蒸気機関車牽引の列車と内航蒸気船を乗り継いでの長旅であったので、入所指定日に遅れないよう、余裕を持って来神するのが普通の旅程であったのだろう。
収容所では移民会社・海外興行の職員が、移住者相手に移住者が入所前に滞在していた。
■移住坂 神戸と海外移住(1)=履きなれない靴で=収容所(当時)から埠頭へ
■移住坂 神戸と海外移住(2)=岸壁は涙、涙の家族=万歳絶叫、学友見送る学生達
■移住坂 神戸と海外移住(3)=はしけで笠戸丸に乗船=大きな岸壁なかったので
■移住坂 神戸と海外移住(4)=国立移民収容所の業務開始で=移民宿の経営深刻に
■移住坂 神戸と海外移住(5)=温く受け入れた神戸市民=「移民さん」身近な存在
■移住坂 神戸と海外移住(6)=収容所と対象的な建物=上流階級の「トア・ホテル」
■移住坂 神戸と海外移住(7)=移民宿から収容所へ=開所日、乗用車で乗りつけた
■移住坂 神戸と海外移住(8)=憎まれ役だった医官=食堂は火事場のような騒ぎ
■移住坂 神戸と海外移住(9)=予防注射は嫌われたが=熱心だったポ語の勉強
■移住坂 神戸と海外移住(10)=渡航費は大人200円28年=乗船前夜、慰安の映画会
■移住坂 神戸と海外移住(11)=収容所第1期生の旅立ち=2キロを700人の隊列
■移住坂 神戸と海外移住(12)=たびたび変った名称=収容所、歴史とともに