6月21日(土)
第一回ブラジル移民船・笠戸丸は、契約移住者七百八十一人と、自由移住者、移民会社社長、通訳など計八百二人の乗客を乗せ、明治四十一(一九〇八)年四月二十八日午後五時五十五分神戸を出港した。
沖係りの笠戸丸に出港前日から乗船していた移住者は、ゆれる船内で日本最後の不安な一夜を過ごした。海上で船から船へ乗り移るのは命がけだ。六千百六十七トンの鉄船・笠戸丸と小型の通船では船のゆれ方が異なるので、大きくゆれる通船から笠戸丸のタラップに飛び移るタイミングは、海になれた人でも緊張する。ましてや、普段、海とはまったく縁がなかった婦人、子供などは、必死の覚悟で乗り移ったことだろう。一つ間違えれば、海に落ちてしまうのだ。
それでは、八百人もの乗客を乗せる笠戸丸は、なぜ、安全な岸壁に係留しなかったのか。岸壁に係留すれば、乗客が海に落ちる危険はない。笠戸丸が沖係りだった理由は、当時の神戸港には笠戸丸のような大型船を係留できる岸壁がなかったためだ。
神戸港の大型船用岸壁は、第一次修築工事(明治四十年~大正十年)による新港一突から四突の完成まで待たなければならない。
第二の疑問は、なぜ、移住者は出港当日乗船せずに、前日から笠戸丸に乗船していたのだろうか。その答えは、沖係りの本船に八百人もの乗客が乗船するのは時間がかかりすぎるからだ。以下は、出港前日の乗船所要時間についての筆者(楠本利夫氏)の推定である。
海岸通、元町通りなどの移民宿に分宿していた移住者は、出発日、早朝から移民宿を出て、徒歩でメリケン波止場へ移動し、そこから「はしけ」に乗り込み、沖に停泊している笠戸丸へ運ばれた。
通常、はしけは、貨物の輸送に使われ、乗客は通船(つうせん)と呼ばれる連絡船で沖の本船へ向う。笠戸丸の乗客の場合は、通船ではなく、はしけが使われたのは、八百人もの移住者を輸送するためには、小型の通船では間に合わなかったからだろう。移民会社は、はしけの出発時刻に会わせて、あらかじめ移住者の集合時間を決め、時差集合・乗船したのだろう。
百トン積みのはしけには、人間なら百人程度を積みこめる。はしけが沖の笠戸丸まで乗客を運んで、再びメリケン波止場へ帰るまでの所要時間は六十分だ。すなわち、岸壁からはしけへの乗船に十分、メリケン波止場から沖の笠戸丸への往路十五分、海上での接舷・移乗に二十分、復路十五分で計六十分とという計算である。
乗客八百人を百人乗りのはしけで、沖の笠戸丸まで輸送するには、八航海必要であり、全員の乗船が完了するには一航海一時間であるから八時間かかることになる。手荷物を持った人や、婦人、子供などもいたので、実際はもっと時間がかかったことだろう。
沖係りの本船は潮の流れのため、船体が係留ブイを中心に回転する。ところが、船に乗っている移住者は、船が回転していることには気がつかない。前夜から乗船していた移住者も、乗船日に見えていた神戸の町並みが、朝起きてみると、船が一回転したため、前日とは反対の方向に見えたため、さぞ驚いたことだろう。
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