それゆえジョアキン・ゲーデスの看板を揚げて工事が始まったのだが、大家ジョアキン氏は大邸宅ばかり造っていたから、
「こんな小さな家は始めてだ」と言ったらしい。しかも、その時の持ち金では、家の玄関と裏口のドアをつけるしか出来ないことがわかっており、後の工事は稼ぎながらぼつぼつ仕上げていくという、ブラジルの超庶民の建て方で工事することに決めたのだから呆れていた。建築技師の伊東徳次さんは、
「絵描きさんは資金が間に合わないし、私は工事にかかったら早く仕上げたい欲が出るし、私の金でシメントを買ったよ」と度々自腹を切ったと聞く。電気工事屋の桜井文治さんも、「よその工事で残ったのを持ってきて、使えるのを使用したから。買う分が少なくて、工事費は私の大出血サービス」とか言いながら援助してくださった。
この家には長男が四歳、次男が一歳七ケ月の時に引っ越した。まだ工事は終わっていなかったがドアは各部屋に付いていたジョアキンスタイルのガラス張りの家に、カーテンつける余裕はなく二年もの間シーツを吊るした。ソフアは窓側にシメントで作りつけになっており、それに合わせて布で作った分厚い座布団を敷いたが、向きあいかける椅子もソファもなく、客が来れば作り付けのコンクリートのソファに一列に並んで電線のすずめよろしく話をし、同じ方向ばかり向いているため首が痛くなったと言えば、
「そんなら場所を左右かえたらえいだけや」と途中で笑いながら、長い時間いるお客にはたびたび左右場所換えをし、
「たいした家を作ったもんやなあ」と言われたものである。
かなり話がそれてしまったが、それたついでにまたまたもう少し書けば、この家を使いやすく仕上げるまでに約十五年近くかかった。この家は一九八〇年代のインフレの波に乗って出来たと言えなくもない。この家を建て始めた夫が年一度は日本へ展覧会に行き、その度に留守を守る私は、
「主人は日本へ出稼ぎに行きました」と言いながら、夫に代わりローケツ染め教室の出稽古をしていた。この七〇年代は、まだ出稼ぎブームにはなっておらず、私の言葉は冗談として受け止められていた。
ところが、八〇年代に入り逆流現象の出稼ぎがはじまった。一世はもちろん二世、三世が行きはじめ、やがて彼らの目の色の異なる夫や妻である配偶者のブラジル人も出稼ぎに行きはじめ、個人からはじまった出稼ぎは一家を挙げて行くようになって、総領事館には朝早くから、パスポートの書き換えをする人や、ヴィザを取る人達の長い行列が連日できたそうで、八〇年代が終わるころに出稼ぎのピークになったようである。この頃のことを思い出して出来た一首である。
実盛のごとく男は白髪染め稼ぐためのヴィザとると聞く
九〇年始めのコロール大統領の頃から、母国日本へ向かった出稼ぎの人たちの中には定住する者も多くなり、まさに逆流移民とも言える時代になったのである。ブラジル人一般はアメリカへ、あるいは彼らと同じ言葉を持つポルトガルなど多くの国へ出稼ぎに行く、これはまさしくブラジル経済事情の悪化を物語る。日本への出稼ぎがあまりにも多くなり、飛行機の便を増やしても追いつかない時期があった。それに乗る乗客も一昔前とはかなり変ったようで「マナーが悪くて」とこぼす乗務員もあった。
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