4月3日(木)
一九五五年にサンパウロ州バストス市長に当選し、二世最初の市長として後進への道を拓いた畑中忠雄さんが、三月二十九日午前五時半頃、ミナス州ウベルランジア市の病院で、家族に見守られる中、老衰に伴う急性肺炎で亡くなった。享年八十九歳だった。
ブラ拓バストス移住地支配人として、終生を尽くした故・畑中仙次郎さんの長男として、一九一三年九月二十二日にサンパウロ州グァラパラ郡で生まれ、サンパウロ市のアルバレス・ペンチアード会計専門学校を卒業し、会計士となる。戦前はバストスの郵便局長をし、四〇年に栄子さんと結婚し、二男三女をもうけた。五五年十一月の選挙で市長に当選。在職中、日系政治家の誠実さ、勤勉を示し、後進への道を拓いた。
畑中さんの後、六〇年から帰化人として初めて市長になった西徹さんは「初めての日系市長としていろいろ風当たりも強く、大変な時代だったが、度胸がよく、温厚で、立派な人柄で見事に任期を全うしました」と当時を回想する。
任期終了後、バストス産業組合の組合長を長年務め、その後は藤原久人商工の製綿工場(アサイ、ジャーレス等)の総支配人を歴任し、六十五歳で定年退職したのを機に、サンパウロ市ブルックリン区に住む。五年ほど前に息子がいたミナス州ウベルランジア市に移転していた。
三月三十日朝、藤原久人商工やダイワ紡関係者多数の列席のもと葬儀が執り行われ、ウベルランジアの墓地に埋葬された。