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最後の移民船 にっぽん丸から30年=同航会で出航シーン再現=波瀾万丈な人生を語り合う=4割が出稼ぎや帰国

4月2日(水)

 二百二十二人のブラジル移住者を乗せた最後の移民船・にっぽん丸が、サントス港に着いて三月二十七日で三十年が経った。七〇年代の好景気で順調なスタートを切った彼らも、石油ショックや、民政移管後の超ハイパー・インフレなどに直面。慣れない異国の地で翻弄され続け、いまでは出稼ぎを含めその四割以上が帰国している。同三十日、リベルダーデ区の静岡県人会で開かれた、にっぽん丸同船者の集いを取材した。

  「ただいま出港です。行ってきま~す」
 『ほたるの光』が流れる中、旅立ちの場面の再演に参加者は沸いた。
にっぽん丸は紙製だ。次々と五色のテープが投げ入れられる。乗船者は大きく手を振りながら、会場をかつて渡った大海原に見立てて一周した。
「いやー思い出すね」。はしゃぎ声がしきりに響いた。この日、顔をそろえたのは三十四家族百人あまり。遠くはリオ・グランデ・ド・スル、ミナスからの参加者もあった。
 ジャーナリストとしてこの最後の移民船に乗り込んだ、本社東京支局長・藤崎康夫著『母と子でみるブラジルへ―日本人移民物語』(草の根出版)によると、にっぽん丸の見送りは約三千人に上り、乗客四百人のうち南米への移住者は計二百八十五人を数えた。
 ブラジル移住者の中には腕に自信を持つ技術者、アマゾンの大地で農業を目指すもの、そして写真でお見合いした夫の元へと向かう花嫁などがいた。
 工業移住者三十八人の一人、辻哲三さん(五九)は、「ブラジルの三十年間の変化も大変というか、無茶苦茶というか、日本では考えられない状況だった」と出席者の気持ちを代弁。「家族も知人もなく、言葉も不自由ななかで(その変化を)乗り切ってきた。しかも、戦前の移民のようにブラジルに根が生えているわけではない辛さもあった」とあいさつの中で、その苦労を振り返った。
 続き、日本からの祝電が紹介され、「日本で同じような生活を悶々と繰り返す暮らしで三十年を過ごすより、皆さんの三十年は刺激に満ちていたのでは」
 家族紹介を通して、それぞれの三十年が語られる時間も設けられた。「船中の天国のような日々から一転、ブラジルでは波瀾万丈の生活が待ち受けた」などと、ここでも、移住した喜びと苦労が交差する感慨が度々漏れた。
一方で、陶芸家の生駒憲二郎さんを始め、フラメンコダンサー戸塚マリさん、歌人多田邦治さんなど、多彩な顔触れが見られるのもにっぽん丸同船者の特徴だと分かった。
 会の発起人小池和夫さん(五六)のもとに先日アマゾンから同船者の現状を伝える名簿が届いた。帰国、帰国、帰国、死亡……。四十三人が移住して、いまに残るのは八人のみに。それでも、同船者家族の集いをトメアスで開いたという便りが一緒に添えられていたのが救いだった。
 「今度はサンパウロでの様子をあちらに送ろうと思っています。これまで同船者同士の交流は乏しかった。三十年目を機会に交流を始めようと思っているところです」と小池さん。
 「われわれは二十五、六で日本を出た世代。もう還暦も迫っている。十年後は難しいかもしれないから、次は五年後に集まりを開きたい」
 会場入り口には藤崎さんが船中で撮った写真の数々が展示され、三十年前の自分と仲間たちを前に、談笑する姿が絶えなかった。