2月26日(水)
サンパウロ州交響楽団(OSESP)合唱団は来月二十八日午後九時から、サラ・サンパウロで行われる演奏会で、日本移民九十五周年を記念し、中田喜直作曲の女声合唱組曲「蝶」を日本語で歌う。指揮者である宗像直美さんの意向で実現した。五つのパートで構成される「蝶」は、「誕生」に始まり、「飛翔」などを経て、「よみがえる光」で締めくくられる。移民の軌跡をなぞるような展開になっている。同じく合唱団の指揮をしていた父、基さんとかつて一緒に練習した思い出の曲でもある。サーラ・サンパウロに宗像さんを訪ねた。
ほのかに明かりが灯る。高い天井、ギリシア風の柱。楽屋が並ぶ通路には音の神が棲まうか。独特の荘厳さに感じ入った。奥へ奥へと歩むと、練習室に辿りついた。
「1、2、3」、「タッタッタター」
歌い手との一体感を、その大きな身振りで作り上げていく。時折、強い語気で指示を飛ばす。が、歌い手に笑顔は絶えない。緊張感のなかにもリラックスしている様子。これも宗像さんの手腕の賜物だろう。この日はアルツル・ホネーガーの「ダビデ王」を練習していた。
OSESP総監督ジョン・ネスシリングの秘蔵っ子。二年前から交響楽団付属の合唱団でタクトを振る。「個人部屋には障子戸を付けてくれた」という特別待遇も、絶大の信頼を寄せられている証しだ。去年は劇場の年間プログラムが載る冊子の表紙も飾った。
一九五七年、二歳で来伯した。いまは日本で生活する父親の基さんは宣教師。ブラジル滞在中は日系社会に「あすなろ合唱団」や、「ピッコロ合唱団」を設立。コーラスの美しさを伝えてきた。
幼少から父親に付いて学んでいた宗像さんだが、音楽に人生を捧げると決意したのは遅かった。「大学に入る二年前のことでした」。指揮者としては遅咲きのスタートだった。
東京芸術大学やスウェーデンに留学。以後、国際的な舞台で腕を磨く。不思議なのは、「最近になって楽譜のめくり方が父親に似てきた」といわれること。そうかな、と思う。
組曲「蝶」は基さんが「ピッコロ合唱団」時代に手がけていた曲だ。「ひらひら」、「ふる、ふりしきる雨」……。ブラジル人には発音の難しい個所が目立つ。「ラテン語やドイツ語の歌は軽々とこなすけれど、日本語は大変でしょうね」。もちろん合唱団として初めての試みとなる。
団員は現在四十八人を数える。当日までにはさらに新規メンバーが十五人加わると言う。一時は給料の高かったサンパウロ市立交響楽団合唱団へ団員が流出したこともあった。いまは「ようやく同じくらいの額になりましたが」。
二〇〇五年に京都で開催される世界合唱シンポジウムに参加することが当面の目標だ。三年に一度、世界の合唱団と合唱指導者がセミナーやワークッショプ、コンサートを繰り広げる。昨年のアメリカ・ミネアポリス大会はミナスジェライスのグループがブラジルを代表して公演した。
「母国での開催ですし、本当に行って見たい。ブラジルのポピュラー音楽をアレンジしたものなど紹介出来れば。トム・ジョビンやカエターノ・ベローゾの曲はメロディーがきれいですから」。しかし、州政府の文化担当者が変わったことで、支出面での締め付けが厳しくなった。ほかの企業団体からの助成を期待するほかない、という。
「劇場(サラ・サンパウロ)の収容人数は千五百。政府としてはお金を出している割にその人数は少ない、ということらしい」
交響楽団や合唱団を公費で維持していくことは並大抵ではない。が、そこにサンパウロの文化度が問われていることも確かだ。
もしお金と暇があればー。宗像さんには夢がある。それは現状では機会に恵まれない人を救い上げるための学校かコーラスを立ち上げるというもの。
「楽譜が読めないために団員テストに受からないケースがよくある。楽譜は外国語の素養も必要ですからね。でも、ブラジルにはいい声を持っている人がたくさんいる。なんとかしたい」
日系社会の音楽文化を底上げした父親ゆずりの使命感がくすぶりを見せた。
公演ではヴィラ・ロボスや、ヨハネス・ブラムスの曲なども歌われる。サーラ・サンパウロは一九九九年、総工費四千四百万レアルをかけて、旧駅舎をリニューアルし、完成した劇場。ジュリオ・プレステス駅の隣、マウア広場にある。
詳細問い合わせは3351・8188。年間プログラムは現在劇場で配布中。