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能楽博士号持つ日系2世=東京芸大初の快挙=理論と実技をクリア=ブラジルへの伝統芸能普及に期待

2月5日(水)

 さきにブラジル二都市(ポルトアレグレ、サンパウロ)で行われた能の「加賀宝生」公演で、通訳兼コーディネイターとして活躍した日系二世の続木初美エルザさんは、東京芸術大学で能楽博士の資格を取った初めての人だ。机上の博士ではない。仕舞・囃・謡―と実舞台での芸事に長けていることが要求される。さらには古文の素養も。そんな難関を乗り越え、芸大初の快挙を達成したのが続木さんだった。

 八三年十一月、東京都千駄ケ谷に国立能楽堂がオープンする。このとき、こけら落としの舞台を目撃したことが後の人生を変えた。当代一流の能楽士たちが競演する、六百年以上という類い希な伝統を持つ古典劇に、続木さんは「尋常でない感動を覚えた」。武蔵野音楽大学に留学し、邦楽の手引きを受けていたころの話だ。 
 「小さいころから、バッハなど宗教音楽が好きでした。後から、印象派にもひかれて。それで、大学では室内オーケストラの指導法を勉強しようと」
 サンパウロ大学芸術コミュニケーション学部に入学。が、まもなく、日系二世というアイディティに足をとられる。「とたんにルーツの国の音楽が気になって」、大学を休学、日本へと赴く。それが二十年前のこと。
 一年で復学するが、国立能楽堂で受けた衝撃はあまりにも大きかった。「いま振り返っても卒業論文で何を書いたか、覚えていないほど」、大学の勉強はそっちの気で能の世界にのめり込んだ。卒業した足で日本に戻った続木さんは東京芸術大学修士課程に進む。 
 大学では宝生流の佐野萌(はじめ)さんに師事。邦楽理論を学ぶと共に、能楽を研究した。同期の多くは両親が能楽士、でなければ、幼少から習っているような人だった。そのため、邦楽科で能楽博士号を目指すときに受けた面接では泣かされることに。
 博士コースは能楽士のプロを養成することを目的にする、と大学側は主張。「きみは将来、舞台に立つつもりか。でなければ、どうして音楽学理科に進学しないのだ」などと苦言を呈してきたという。 
 博士論文として設定したテーマは「『働事』の歴史的変遷」。能の研究者から「その資料はない」と言われたことが決め手となった。「働事」とはそれぞれの舞いにおける意味。シテ方五流・囃し方二十流の代表らとそれぞれ面会し、聞き取り調査した。同じ名称でも流派によって名称や意味が異なったりするからだ。そうした研究作業のかたわら、演者として舞台に立っていた。
 同期は過去の先輩同様に、舞台が忙しく、論文を発表するところまで至らなかった。そんな中、続木さんは二足のわらじを履き通した。結果、芸大で初めての能楽博士の資格を手にする。
 卒業、そしてブラジル人外交官と結婚。当時夫の赴任地だったパリでは九七年、宝生流を招くために奔走する。家元の渡仏も実現し、フランスにおける「日本年」に花を添えた。
 現在パラグアイに在住、「あと数年は海外生活が続く」という。目下のところは、暇を見つけて自宅で稽古に励む。外国語に堪能なだけに海外での伝承も期待される続木さんだが、「プロの三、四十年選手でも稽古の日々。能楽士は終身修行です。だから、わたしにはまだまだ他人に教える気がわいて来ない」と打ち明ける。
代わりに、研究業に精を出す。芸大の能楽博士として、中国で今年開かれる「国際伝統音楽会」に参加。「能の音楽と動きの関係」について発表することが決まった。
また、かつて存在したコロニア歌舞伎に関する調査もブラジル日本移民史料館の依頼で進めている最中という。「なんとか記録を残しておいて、伝えたいから」とボランティアで引き受けた。
ブラジルではいま、観世と宝生、喜多の各流派が日系社会で活動している。ただ中心となっている人の高齢化が進み、なかなか、若い世代に伝え切れていない。
だからこそ、死ぬまで日々これ修行でも伝えていく義務は認識している。「佐野先生からは謡いなどより、型=仕舞から入っていくのが簡単だろうと言われているのですが」
宝生流の家元からの免許皆伝も「間近いかも」と目を輝かす続木さん。歴史六百年の伝統芸能をブラジルに接ぎ木出来るのは今後、この人しかいないだろう。