サンパウロの街で、一人でも多くの美顔術のお客が欲しいと歩きつづけている頃、彼女はパラグアイの耕地で、孤軍奮戦していたことが、移住して八~九年してから分かった。彼女が、
「サンパウロ見物に来たわよ」と訪ねてきたからである。
西本願寺や東本願寺の他に、ブラジルに進出してきた新興宗教は十指に余る。その中の一つとして、我が家の裏通りに、上村祥子と同じT教の大きな構えの教会があるが、この教会を本部教会とするパラグアイの支部教会から、明子はその宗教に入っていないが、付き合いで、この本部教会へ回って来たのであった。
教会としては研修をするという目的をたてているが、参加者すべてが信者ではないようで、家庭や農場から離れて、久しぶりに息抜きしょうとサンパウロへ遊びに来たその中の一人として明子も来たのだった。
立派にとはまだいえないが、ようやく我が家を建てることができ、これでもう家賃を払わなくてもよいと、ほっとしていた一九七二年頃の話である。明子は、
「あなた」と私に呼びかけ、
「ブエノスからパラグアイに行き、事業団の世話をした移民の人達が三百家族いる耕地に入ってね、作物が待ってくれないから、あくる日から、私でもできる仕事を教えられて百姓したのよ。家には舅、姑、小姑が三人もいたの。あれ、どうしてあんなにグチグチ言うのかしらね。人の心を刺すのかしらね、辛かったわよ。私だって黙ってなんかいないしね」と言葉を切って話を続けた。
「土地は肥沃らしかったけれど、でも百姓を知らない私だし、仕事を見ても何だかさっぱりわからないのよね。私、街育ちだから、本当に農業のことなんかまるで知らなかったのよ。でも農家に嫁入りすると決めて来たのだから、農作業を嫌とは思ったことはないけれど。とにかく外国の農家の暮らし方を知らない私に、ちゃんと仕事のことを教えてくれればいいのよね。しかも外国でしょ、その土地に永く暮らした生活の仕方を知り尽くしたベテランの目で、今着いたばかりの私を見て、出来ないといってグチグチ責めるより、虐めや嫌がらせをせずにね、教えてくれれば良いでしょうに。それをしないで姑と小姑が攻めるのよ。そりゃ辛かったわ」
本当にそうだと思う。突き詰めて考えることをしなかったが、かって私が松岡家で居候をした三ケ月間を思い出せばよく分かる。饅頭を作れず、鶏の首をハネラレナイあれが、嫁と姑や小姑との間に起こることであれば、ぼんやりな私にだって軋轢になっていたであろう。私は画家の単身移住者の夫と結婚して貧乏絵描きの経済的苦労はまぬがれなかったものの、夫の係累はなく苦しめられることはなく、彼女の苦しみを想像するしかなかった。彼女は話を続けた。
「辛くてね、姑との中が。何回も出て行こうとしてね。日本から持ってきたものを売ってお金を作ってね、日本に帰ろうと考えたりしたのよ。でも、その度に人が中に入って、けっきょく元に戻るわけ。そしたら、あなたインフレがあるから、お金の値打ちがなくなるでしょ。作ったお金は使わないことにはってことになって、それで土地を買ってね」
「まあ、凄い」と私は言った。
「私、トラクターの運転もするのよ、あんな山の中で免許証なんて必要ないわよ、ぶつかっても牛か樹だものね、家を出たり戻ったり、子供が生まれても、それを繰り返していたのよ。ある時にね、家を出たとたんに子供が病気になり、心細くなってね、おとうちゃんを、ちょっと呼んでくれるって人に頼んで、来て貰って。また元にもどったりして」