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花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=71

 「ラテン系は美しく、惹かれるものはありますが」と言い、「男性が若いうちはいいが、年齢とともに体力、精神力ともに弱さが出てくるし、食事にしても日本食を恋しくなりますから」と語っている。
 ことに体調を崩した時など、日本人なら白かゆや、おじやなどが欲しいはずで、それを病人自身が作らなくてはならないのは辛いとも書き、また「彼女たちは経済観念がゼロで、所帯は任せられないのです。女は消費する動物であるということを地で行くわけですから、財布など預けられません」と続けている。

 これはブラジルでも同じ事である。親しい七十歳の方は、
 「日本式にサラリー袋を封を切らず渡したら、三日で使い切ってしまい、次の月も全額のサラリーを渡したら、その月は一週間持ち、三ケ月目は十日間で使いきってしまったのですよ。その後はブラジル人式に一日単位で渡すしかなかったですよ」という話を聞いたことがある。
 ブラジル人ではなく、日系三世ならまだしも二世がである。移民の子でありながら、親の何を見て成長したのかと思うが、これがこのブラジル社会の女性の普通の生活である。それゆえにブラジル人男性は、誰も生活に必要なだけ毎日、長くても一週間分しかお金を主婦に渡さないという。 
 いまの日本の若い人たちの中には、子育てもできずに殺してしまう人もいるようだが、いくら若くて新婚ほやほやで所帯持ちを知らないとはいえ、一ケ月の生活費を三日で使い切るような主婦が日本にいるとは思えない。しかしこのブラジルには確かにいるのである。
 コロンビアだけでなくブラジルも、生活習慣や物の考え方が違うために、日本人はやはり日本女性をと祖国から花嫁を望み、その結果「花嫁移民」として私たちが海を渡って来る機会を得たと言える。
 私の場合は目に見えない赤い靴を履いて生まれたためであるように思えるが、またある花嫁は「こういう運命だった。辛かったけれど来て良かったわ」と明るい表情で言い切る。
 花嫁も今では他界する人が多くなったためか、「花嫁移民」という移民の仕方に連帯感が湧き、その底には言わずもがなの辛苦の昔の同じ体験がある。今では、ほとんどの花嫁の生活は落ち着き、経済的にも余裕ができて訪日することも夢ではなくなった。しかし日本はあくまでも心の古里であり、帰る家は苦労してこのブラジルに築きあげたこの自分の家しかないのである。親も姉妹もない私はとりわけてである。
  
  ふるさとの町の横丁に柚子の実の十(とう)ほどみのりだあれも居ない

  日本の家や町並映るたびわが帰る家のなき事も見る

エピローグ 
 
 二〇〇九年四月二五日「渡伯五十周年記念祝い並びにコチア青年呼び寄せ第一回花嫁金婚祝記念式典」という少し長い題のつく記念式が、サンパウロ市内の宮城県人会館で行われた。と五月一日のニッケイ新聞の記事が出た。
 一九五九年三月二日神戸港、四日に横浜港を出帆した「あめりか丸乗員三八四人」の同船者会と、これに乗ってきた「コチア青年呼び寄せの第一回花嫁十二人の金婚式」である。