「つらいから、見送りませんよ」という夫妻が、早く帰ってね、と繰り返した。車が走り出しても二人が手を振ってるのが見えた。
大通りは、もう車の列だ。車が桟橋に入ると遥か突端に、日の丸を掲げた黒い貨物船が見えた。
タラップを上ったところにボーイが立っていて、私を船長室へ案内した。
そこに日本人の紳士がいて、一人の眼が、すごく鋭かった。
「こちらが小菅船長、そちらがサンパウロ総領事館の石黒武官どの」
と、店長が紹介した。
鋭い眼の紳士は軍人だったのだ。
私は目礼しながら、武官という五十歳がらみの恰幅のいい男の正面に腰をおろした。
サントスの領事は、海岸山脈の裾に広がるレジストロ、セテバラスなど、日系人集団、約二百家族の指導、保護にあたる。
「アメリカとの戦争は不可避の状態にある。そこで、君に頼みがある。日本へ持っていってもらいたいものがあるのだ」
石黒武官はそこで口ひげを撫でた。彼の口調は、既に部下に対する命令だった。何を持っていくのか。武官が頼むというからには、重要なものなのだろう。日米開戦が避けられない状況にある、という彼の重い口ぶりが胸をしめつけた。私は危険を感じた。断われるものなら断わりたい。しかし、もう、不可能なことを悟らざるを得ない。
「何を持っていくのでしょうか」
辛うじて彼の顔を見返した。
武官は答えず、上衣のボタンを外し、ワイシャツをたくしあげて胴に巻いた黄色い帯のようなものを引き出していった。
「これだよ。濡れても差し支えない」
それは長さ一メートル、巾7センチほどで一二、三センチの間隔で、中味がずれないように、いくつかの縦に縫い目がある。その中は封筒のようだ。
私は、もう拒めないと覚悟はしているものの、不安とあきらめが、あざなうように胸を襲った。
私は武官がしていたように、どっしりと重い帯をしめながら、封筒の中でサラサラと鳴る砂のような音を聞いた。封筒の中身は戦争に重要な役目を果たすものなのだろうか。砂のような微かな音は何だろう。なぜ、これを自分に運ばせるのか、武官と店長の間に、どんな密約があるのだろう。
「……どうにでも、なれ……」
悲しさと憤りで店長を恨んだ。サントスにもサンパウロにも多くの日本人がいるではないか。
なぜ、自分を選んだのか。なぜ、武官は己れの部下から選ばないのか。わざわざサンパウロからサントスまで来たのは店長が私を推したに違いない。
私は以前から店長に恩義を感じていた。彼は私の農業経営の希望に反対したのではなかったが、郷里からの送金をあてにするような安易な考え方では成功は覚束ない、というより失敗は明らかだ。君は大地主の息子という境遇に反撥して、この国に来たのではないか。郷里からの送金に頼るようでは、君も父祖と同じ生涯を送るに過ぎない、と諭した店長の戒めを忘れたことはなかったのだ。
「それよりも、君はエメボイ農大に入ることだ。エメボイは農場実習が多い。そこで一般耕地の農大の生活を体得するがいい。エメボイは学生ばかりでなく、一般農家の子弟から募った作業に重点をおく班もあり、その班員と生活を共にすることで、この国の農業の実態を体得することができる」といった。