翌朝早く甲板に出て体操をしていると、ボーイが、船長がお話ししたいと待っている、と迎えに来た。
船長室に入ると船長は
「ベレンは二年ぶりでしたが、街並みは変わってませんね。海岸の草葺き屋根の家並みも同じでした。ところで、福田さん、あなたはコーチさんと余りお話しにならないようですね。コーチさん、ちょっと変った人ですからね。話しにくいでしょう」
といって、苦笑しながらつづけた。
「あなたは思いがけない任務を負わされましたが、実はコーチさんも、私用でなく、何か公務のような仕事で中・南米を巡っておられるんですよ。日本へ帰っても、またすぐ中・南米のどこかに出られるでしょう。あるいは、メキシコに上陸して日本行きを止めるかも知れませんよ。実はコーチさんの行為は、総てカモフラージュのようです。このことは、もっと早くあなたに話しすべきだっただったのですが、船員の誰にも明かさなかったので、遅れました。このことは全く内緒、極秘です。そのおつもりで…」
船長は、そこで話を切り、じっと私の眼を見詰めた。
意外な船長の話が腑に落ちないので問い返した。
「コーチさんは、なぜ、日本行きをやめるのですか」
船長はじっと考えるようだったが、口を開いた。
「開戦です」
またも、意外な返事だ。
一瞬、耳を疑った。重要な任務を持つというコーチが、日本へ帰るのか、帰らないのか、船長にも分からないような口ぶりが納得できず、やはり、日米戦は必至の状況なのかと、自分を納得させようとして、思わず腹の帯を撫でた。
その時、コーチが入って来た。いつも感情を表に出さない彼は、挨拶もせず、私の隣に腰を下ろした。「今、日米問題を話していたんです」
船長の発言にコーチは口を閉じたまま頷いた。
「コーチさんは、日米開戦は必至とお考えですね」
船長の問いにコーチは無表情で黙っているので私が問いかけた。
「コーチさん、あなたは、どうお考えですか」
コーチは頭を横に振って「分かりません」と低く呟いて、つづけた。
「アメリカは、もう数年も前から作戦を進めているのに、日本は呑気なものです。この船も果たしてパナマを越せるかどうか、越せるとして、メキシコ以北の太平洋岸の風景を見れば一目瞭然です。驚くほどトーチカの列です」
船長はコーチが重要な任務を担っているといったが、やはり軍事関係の最前線の任務についているのだと推測して私は納得した。
それから誰も口をきかず、重い空気が部屋を満たした。
このようなアメリカの対日作戦に、日本はどのように対処するのか疑問だったが、私のような一介の若僧の憶測が何の役に立とう。もう、こんな話題は打ち切ろうと、今まで気になっていたコーチの姓の由来を質ねることにした。
「コーチさん、あなたのお名前は、どう書くのですか。高知県の高知ですか」
私の問いにコーチは天井を仰ぎながら、何かを思い出すような口調でいった。
「…そうです。四国の。英語なら馬車だ」
コーチは初めて笑顔を見せた。